名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 評・人物と政宗との対抗
人物から云つて、戰國時代六、七位には位する人である。天正十八年に、旣に會津百二十萬石に封ぜられてゐるのであるから、當時旣に家康、利家、政宗などと肩を比べてゐたことが分るのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏鄕と政宗との對抗は、相當深刻であり、曾て幸田露伴氏も、「蒲生氏鄕」なる題で、書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して、秀吉に反抗しようと云ふのではない。一揆を操つて奧州の治安をかき擾し、之を討伐に向つた氏鄕を失策らせ、秀吉をして(奧州は結局政宗でなければ、駄目だ。いつそ、政宗に委せよう)と、思はせようと云ふ肚である。だから、氏鄕の立場は、むつかしかつたのである。もつとも、政宗もさうした策謀のために、秀吉から相當いぢめられたことは、政宗の項にある通である。
新字:人物から云つて、戦国時代六、七位には位する人である。天正十八年に、既に会津百二十万石に封ぜられてゐるのであるから、当時既に家康、利家、政宗などと肩を比べてゐたことが分るのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏郷と政宗との対抗は、相当深刻であり、曽て幸田露伴氏も、「蒲生氏郷」なる題で、書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して、秀吉に反抗しようと云ふのではない。一揆を操つて奥州の治安をかき擾し、之を討伐に向つた氏郷を失策らせ、秀吉をして(奥州は結局政宗でなければ、駄目だ。いつそ、政宗に委せよう)と、思はせようと云ふ肚である。だから、氏郷の立場は、むつかしかつたのである。もつとも、政宗もさうした策謀のために、秀吉から相当いぢめられたことは、政宗の項にある通である。
書き下し
人物から云つて、戰國時代六、七位には位する人である。天正十八年に、旣に會津百二十萬石に封ぜられてゐるのであるから、當時旣に家康、利家、政宗などと肩を比べてゐたことが分るのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏鄕と政宗との對抗は、相當深刻であり、曾て幸田露伴氏も、「蒲生氏鄕」なる題で、書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して、秀吉に反抗しようと云ふのではない。一揆を操つて奧州の治安をかき擾し、之を討伐に向つた氏鄕を失策らせ、秀吉をして(奧州は結局政宗でなければ、駄目だ。いつそ、政宗に委せよう)と、思はせようと云ふ肚である。だから、氏鄕の立場は、むつかしかつたのである。もつとも、政宗もさうした策謀のために、秀吉から相當いぢめられたことは、政宗の項にある通である。
現代語訳
人物からいって、戦国時代の六、七位には位する人である。天正十八年に、すでに会津百二十万石に封ぜられているのであるから、当時すでに家康、利家、政宗などと肩を比べていたことが分かるのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏郷と政宗との対抗は、相当深刻であり、かつて幸田露伴氏も、「蒲生氏郷」という題で書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して秀吉に反抗しようというのではない。一揆を操って奥州の治安をかき乱し、これを討伐に向かった氏郷を失策させ、秀吉に(奥州は結局政宗でなければ、だめだ。いっそ、政宗に任せよう)と思わせようという腹である。だから、氏郷の立場は、むずかしかったのである。もっとも、政宗もそうした策謀のために、秀吉から相当いじめられたことは、政宗の項にあるとおりである。
解説

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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 一揆鎮圧と信義○木村伊勢守秀俊が領內、葛西大崎に、一揆蜂起す。氏鄕之を聞き、兵を率ゐ雪中に出陣し、佐沼に至り、風說を聞くに、伊達政宗の所爲と言ふ。氏鄕少しも臆せず、所々の一揆を討つ。時に政宗に屬せし永沼城主新國上總、氏鄕に對面し、今度國人蜂起の根元は政宗が所爲なり、雪中にて通路も不自由なり、殊に御不案內なれば旁々以て御勝利見えず候間、願くは是より御歸陣あれかしと言ふ。氏鄕聞て、貴殿の申さる丶こと的然なれども、曩に殿下是地まで至り給ひ、當國の仕置仰付らる丶時、秀俊と我等とを左右に並べ給ひ、忝くも兩人の肩を撫で秀俊は氏鄕を兄と思ひ、氏鄕は秀俊を弟と思ひ、當國の事互に談合すべしと、重き命を受けり、去れば今我假令途中に於て死すと雖も、秀俊を見捨てゝは信義に於て闕る所あり、信義を失ひては、何の面目ありて天下の人に逢はんやと言て、益々進み討て竟に之を平げり。 ○此役政宗賊と通じ、屢々氏鄕を擊んとす。氏鄕之を知り、守備を嚴にす。政宗發すること能はず。後漸く政宗の隱謀顯はれければ、政宗、家の大事と思ひ、種々二心なき由斷はりありければ、氏鄕返事に何樣の事も、我等には苦しからず、唯天下の爲めを專一に思召れよと言遣はせり。 ○氏鄕、九戶より歸陣の時衣川に至る。賦役の人夫川の鮭魚上るを見て、『昨日たち、今日きて見れば、衣川、裾の綻、さけ上るらん』と口占みけり。氏鄕聞て大に感じ、賦役を免じて、歸されけり。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 政宗の偽書と家康の評○秀吉、蒲生氏鄕を會津に封じて曰く、此所は奥羽の鎭壓なれば、能く守護すべし、家中の侍の義は、假令秀吉に敵を爲し、又勘當の者なりとも、文武を得たる侍ならば扶持せられよ、只文臣武臣を持つこと肝要たるべし、其外法度の條々は、追て書付を以て申渡すべしと。後、氏鄕會津を賜はりし禮に出ければ、秀吉外のことは何にも言はずして、汝手を能く書けり、謠本を一番書て吳れよとて、料紙硯を取寄せ出されたり。 ○小田原平ぎし後、葛西、大崎一揆起る時に、伊達政宗之に通ぜしかども、蒲生氏鄕の威に歴せられて發すること能はず、賊平ぎて後、秀吉、政宗を召す。其明年、政宗、氏鄕と共に上京す。秀吉、賊に通ずるの書を以て、詰問せられければ、政宗、臣實に賊に通ぜず、然るを通ぜりと申は讒言なり、其故は鶺鴒の判形に何つも瞳を付けしが、此判には瞳なく候、全く謀書なりと言ふ。秀吉、大小名より政宗の書狀を取集め見らるゝに、政宗の言の如し。依て政宗を赦されけり。井伊直政之を聞き、家康に告て曰く、某去冬奥州へ下り見聞するに、政宗の異心歷然たり、然るに太閤敕免せらるゝこと、紕明の足らざるにあらずやと。家康曰く、太閤實に政宗の異心を知らざるにあらず、太閤の性質を以て考ふるに、政宗此時速に上京すること大勇なり、是一ッ。次には自書の檄文を反て、僞書なりと言ふ不敵の心、即ち器量ある將なり、是二ッ。夫のみならず鶺鴒の花押に、前年より心を用ひ、諸家の贈答の書簡にも、一同ならざる遠慮、是大將の器なり。三條、尋常人の及ぶべきにもあらず、依て太閤之を感ぜられて罪を赦されたり。太閤の大器、政宗に百倍すと言はれて感ぜらる。後秀吉那古耶に在りし時、施藥院、側に侍し、頻りに政宗の功を稱す。秀吉色を作して曰く、去年奥州賊に通ぜしこと我之を熟知せり、去れども今方に三韓に事あり、之をして力を行間に效さしむるに如かず、且つ毛利輝元、島津義弘の如き、初め跳梁すと雖も、終に能く屈服せり。故に政宗の罪を赦して、以て反側の心を安ぜり。汝何ぞ之を譽るの大過なる、此必ず政宗の爲めに遊説するならんと。時人其大量に服せり。
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