名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 三つの大事の場(下)
案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の樣なる者來りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ體にて居たる所に、太閤來り給ひ、和尙出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄て、御傍へ寄りて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奧州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間將監御茶入の箱に入りたるを持參して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、將監方へ押戾どす、將監再三言へども、彌々受けず、此由を將監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の內より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拜領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻將監御意の由にて、何やらん持參仕りたれども、御道具を御臺所の疊の上にて拜領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の體なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことゞも、人口にありと雖も、左程のことゝ思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。
新字:案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の様なる者来りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ体にて居たる所に、太閤来り給ひ、和尚出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄て、御傍へ寄りて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奥州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間将監御茶入の箱に入りたるを持参して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、将監方へ押戻どす、将監再三言へども、弥々受けず、此由を将監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の内より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拝領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻将監御意の由にて、何やらん持参仕りたれども、御道具を御台所の畳の上にて拝領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の体なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことゞも、人口にありと雖も、左程のことゝ思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。
書き下し
案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の樣なる者來りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ體にて居たる所に、太閤來り給ひ、和尙出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄て、御傍へ寄りて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奧州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間將監御茶入の箱に入りたるを持參して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、將監方へ押戾どす、將監再三言へども、彌々受けず、此由を將監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の內より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拜領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻將監御意の由にて、何やらん持參仕りたれども、御道具を御臺所の疊の上にて拜領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の體なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことゞも、人口にありと雖も、左程のことゝ思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。
現代語訳
案内者はどこかへ行って見えなくなり、ただ一人、森の中にいた。おそらくここで打ち殺そうというのだろう、それもまあよいと思っていたところ、茶童のような者が来て、刀と脇差を所望した。何だ、侍に刀や脇差を寄越せとは、と言って聞き入れない様子でいたところ、太閤が来られ、「和尚が出られたか」とことのほか上機嫌であった。そこで刀と脇差を投げ捨て、お傍へ寄って、そのままお供をし、茶を賜ったのち、「奥州のことが気がかりだ」と暇を賜った。これが二つ。家光公へお茶を上げるよう仰せ付けられたとき、お勝手へ佐久間将監が茶入れの箱に入ったものを持参して、「これを政宗に下さるので、これでお茶を上げるように」との仰せと言った。私はまず「よろしい」と言って、将監の方へ押し戻した。将監が再三言ったが、いよいよ受けなかったので、この旨を将監が申し上げた。家光公は「もっともだ。そこに置け」と仰せになったとのことである。のち、直接お袂の中から木葉猿という茶入れを出して下さった。その御手から直に拝領して、「まことにかたじけないことです」と謹んで頂戴し、「先刻、将監がご意向と言って何かを持参しましたが、お道具をお台所の畳の上で拝領するのは恐れ多く、まず頂戴いたしませんでした」と申し上げた。家光公はことのほか感心した様子であった。これが三つ。私があちこちで少々功を立てたことは、人の口にのぼっているけれども、それほどのこととは思わない。この三つは大事の場であったが、私は所存を決めて思うままにして、利を得た。総じて大事なことは、人に相談せず、一心に決めるのがよいと言われた。
解説

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