名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 馬を案じる家臣
○義弘の家臣、北山內助と曰ふ者、一日義弘の前にて、喜ばざるの色あり。義弘、不審して尋ねければ、內助君には、能くも見給ふもの哉、臣秘藏仕る所の馬、大に病み惱み候が心に掛りて、早く宿許に歸り見申度と言ふ。義弘、夫程の事に心を動かすことや候、大丈夫の振舞にあらずと言はれければ、內助、如何なる人も蜘の巢に罹り、又蜂一匹のことに色を動かすことと之あり候、馬は臣が足にて候、惱み候へば心を動かす間敷にあらずと申ければ、義弘、手を拍て大に笑ひ、我等が誤りなりと言はれけり。小事なりと雖も、當時君臣の間を見るべし。 ○義弘は軍事に長じたるのみならず經濟に長じたり、其一二を記さんには大隅國加治木に於て錢を鑄たり、今に錢屋町と唱ふるあり、或は朝鮮より陶器製造人數名を列れ歸り、初め大隅國帖佐鄕に於て製造せしめ、後薩摩國日置郡伊集院鄕苗代川村に還し、大に製造所を開らき、今に至り數百戶の製造家住す。之を薩摩燒と唱ふ、一の名產なり。其他經濟に心を用ひたる事蹟許多ありたりと云ふ。 ○義弘儉素を尚び奢侈を惡む、故に居室門廡、士人の居宅の如しと。 ○義弘常に曰く、我等一人の武功を以て三ヶ國を取治めたるにあらず、皆諸侍の働き故なりと。
新字:○義弘の家臣、北山内助と曰ふ者、一日義弘の前にて、喜ばざるの色あり。義弘、不審して尋ねければ、内助君には、能くも見給ふもの哉、臣秘蔵仕る所の馬、大に病み悩み候が心に掛りて、早く宿許に帰り見申度と言ふ。義弘、夫程の事に心を動かすことや候、大丈夫の振舞にあらずと言はれければ、内助、如何なる人も蜘の巣に罹り、又蜂一匹のことに色を動かすことと之あり候、馬は臣が足にて候、悩み候へば心を動かす間敷にあらずと申ければ、義弘、手を拍て大に笑ひ、我等が誤りなりと言はれけり。小事なりと雖も、当時君臣の間を見るべし。 ○義弘は軍事に長じたるのみならず経済に長じたり、其一二を記さんには大隅国加治木に於て銭を鋳たり、今に銭屋町と唱ふるあり、或は朝鮮より陶器製造人数名を列れ帰り、初め大隅国帖佐郷に於て製造せしめ、後薩摩国日置郡伊集院郷苗代川村に還し、大に製造所を開らき、今に至り数百戸の製造家住す。之を薩摩焼と唱ふ、一の名産なり。其他経済に心を用ひたる事跡許多ありたりと云ふ。 ○義弘倹素を尚び奢侈を悪む、故に居室門廡、士人の居宅の如しと。 ○義弘常に曰く、我等一人の武功を以て三ヶ国を取治めたるにあらず、皆諸侍の働き故なりと。
書き下し
○義弘の家臣、北山內助と曰ふ者、一日義弘の前にて、喜ばざるの色あり。義弘、不審して尋ねければ、內助君には、能くも見給ふもの哉、臣秘藏仕る所の馬、大に病み惱み候が心に掛りて、早く宿許に歸り見申度と言ふ。義弘、夫程の事に心を動かすことや候、大丈夫の振舞にあらずと言はれければ、內助、如何なる人も蜘の巢に罹り、又蜂一匹のことに色を動かすことと之あり候、馬は臣が足にて候、惱み候へば心を動かす間敷にあらずと申ければ、義弘、手を拍て大に笑ひ、我等が誤りなりと言はれけり。小事なりと雖も、當時君臣の間を見るべし。 ○義弘は軍事に長じたるのみならず經濟に長じたり、其一二を記さんには大隅國加治木に於て錢を鑄たり、今に錢屋町と唱ふるあり、或は朝鮮より陶器製造人數名を列れ歸り、初め大隅國帖佐鄕に於て製造せしめ、後薩摩國日置郡伊集院鄕苗代川村に還し、大に製造所を開らき、今に至り數百戶の製造家住す。之を薩摩燒と唱ふ、一の名產なり。其他經濟に心を用ひたる事蹟許多ありたりと云ふ。 ○義弘儉素を尚び奢侈を惡む、故に居室門廡、士人の居宅の如しと。 ○義弘常に曰く、我等一人の武功を以て三ヶ國を取治めたるにあらず、皆諸侍の働き故なりと。
現代語訳
義弘の家臣に北山内助という者がいた。ある日、義弘の前で、喜ばない様子をしていた。義弘が不審に思って尋ねると、内助は「殿には、よくお気づきになられました。私が大切にしている馬が大いに病んで苦しんでおり、それが気にかかり、早く宿に帰って見たいのです」と言った。義弘が「それほどのことに心を動かすのか。立派な男の振る舞いではない」と言うと、内助は「どんな人でも蜘蛛の巣にかかったり、蜂一匹のことで顔色を変えることがございます。馬は私にとって足です。病めば心を動かさないわけにはまいりません」と答えた。義弘は手を打って大いに笑い、「われらの誤りであった」と言った。小さなことではあるが、当時の主君と家臣の間柄をうかがうべきである。 義弘は軍事に優れていただけでなく経済にも優れていた。その一、二を記すと、大隅国加治木で銭を鋳造し、今も銭屋町と呼ぶ所がある。また朝鮮から陶器を作る者数名を連れ帰り、初め大隅国帖佐郷で製造させ、のち薩摩国日置郡伊集院郷の苗代川村に移して大きな製造所を開かせた。今に至るまで数百戸の製造家が住んでいる。これを薩摩焼と呼び、名産の一つである。そのほかにも経済に心を配った事績は数多いという。 義弘は質素を尊び、贅沢を嫌った。そのため居室や門・廊下は、一般の武士の家のようであったという。 義弘はいつも「われ一人の武功で三か国を治めたのではない。すべて諸侍の働きのおかげである」と言っていたという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』島津義久 門は茅葺でよい○薩摩國分の城門茅葺にてありし所、破損せし故、山田安利、伊集院抱善、義久に申は、御城御門破損致したるに付、此節御修復の序に小板葺に致し申すべし、他國より使者抔參りても、三箇國の太守の御座ます御城門茅葺にては、餘り粗末の樣に存候とありければ、義久聞て他國より使者を越し候はゞ、必ず心ある者と存ずるなり、尤も當國の地を數里通りて參るなり、然らば三箇國の太守の城門は、茅葺にて粗末なれども、國民の風俗を見れば、富み榮えたり、太守の仁政定めて厚く之あるべくと肝要の所にこそ氣を付け申べけれ、小板葺にて結構に致しても、百姓疲れては國主の仕置宜しからざるを見申べければ、肝要の所に氣を付け申べく、入ざる所に氣を付け申間敷、本の茅葺にて苦しからずと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 孝行の盗人を許す○勝茂の代に、輿賀の庄に脇穗を刈り盗みたる者あり、糺問の末に、死刑に定まりたり、直茂聞て不審に思ひ、橫目の者を遣はし、之を糺さしむるに、盜の曰く、此三ヶ年老母相煩ひ某ことは、何方へも奉公杯もせず、混たと相副看病致居候へば、手前困窮致したることは據なく候、然るに母申すは、早苗の米少し食し度と申候間、是非に及ばず、脇穗を刈り少し計り母に食はせ候と、直茂聞て、仔細あるべきことゝ思ひしに、果して然りとて、殊の外不憫に思ひ、米拾俵を與へ、如何にも能く母へ孝行を致すべし、猶不足あらば、重ねて與ふべしと言て、其罪を赦せり。 ○天正十四年四月、秋月種實使を薩摩に遣はし、兵を乞ふの時、使人を選び薩州へ遣はす、此使直茂の館に立寄り、右の趣申述ければ、直茂、箇樣のことは使者の申樣肝要なり、其仔細は舞や平家抔も上手と下手とは同じ言葉なれども、語り樣にて、格別此方の心入相違するものなり、隨分言葉を巧に、理を細かに申さば、薩州勢の出張は、疑あるべからずと言はる、使者領して去る。果して義久兵を出せり。 ○直茂、一日接木をさせて之を見る、傍に居る某に、汝も接木をするやと問ふ。某最早年が末に相成候間、左樣なることは仕らずと言ふ、直茂、偖々汝は沙汰の限りなり、汝が見るべきと思候や、なぞ子供孫供へは取らせぬぞ、物毎我爲め計りにせぬものぞ、末代他人の爲めとするものぞと言て、叱られたり。