名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部盛親 捕らわれても恥じず
○大阪城陷りしかば、盛親、葭蘆の中に潛まり隱れ居たりしが、終に蜂須賀が手に生捕れたり。盛親に縄二筋付けて白州に引き居ゑたり。秀忠側の士を以て數千の大將たる身、自害をすべきことゝなるに、左はなかりしは如何ぞと尋ねらる。盛親わるびれたる色もなく、朝の軍に打勝ちたれども、後の軍に、赤備の軍兵に打合はせて、味方餘多討死し、敗北せしこと、是非なき次第に候と言ふ。又討死するか、自害するか二つの志なかりしこと、返す〳〵も不審なりと再び尋ねられしかば、盛親承はり、盛親も一方の大將たる身に候へば、葉武者と同じく輕々敷討死すべきに候はずと言ひ、再び兵を起して恥を雪ぐべき心、言外に顯はれたりとぞ。 ○盛親、警固の士に謂て曰く、我藤堂高虎の家士に贈り度物あり、其故は矢尾合戰の時、高虎の家臣に藤堂仁右衛門、同勘解由、同新七、桑名彌次兵衛等鎗を合はせ、何れも戰死せり。中にも勘解由只一人に成り、勇を奮て戰死せり。其勢拔群なることにてありし故に、其冑を取り家臣に持たせたり。之を勘解由の子孫に贈て戰死の時の形勢を願くは知らせ度思ふなりとありければ、警固の士大に感じ、其冑を勘解由が子に送りけり。
新字:○大阪城陥りしかば、盛親、葭蘆の中に潜まり隠れ居たりしが、終に蜂須賀が手に生捕れたり。盛親に縄二筋付けて白州に引き居ゑたり。秀忠側の士を以て数千の大将たる身、自害をすべきことゝなるに、左はなかりしは如何ぞと尋ねらる。盛親わるびれたる色もなく、朝の軍に打勝ちたれども、後の軍に、赤備の軍兵に打合はせて、味方余多討死し、敗北せしこと、是非なき次第に候と言ふ。又討死するか、自害するか二つの志なかりしこと、返す〳〵も不審なりと再び尋ねられしかば、盛親承はり、盛親も一方の大将たる身に候へば、葉武者と同じく軽々敷討死すべきに候はずと言ひ、再び兵を起して恥を雪ぐべき心、言外に顕はれたりとぞ。 ○盛親、警固の士に謂て曰く、我藤堂高虎の家士に贈り度物あり、其故は矢尾合戦の時、高虎の家臣に藤堂仁右衛門、同勘解由、同新七、桑名弥次兵衛等鎗を合はせ、何れも戦死せり。中にも勘解由只一人に成り、勇を奮て戦死せり。其勢抜群なることにてありし故に、其冑を取り家臣に持たせたり。之を勘解由の子孫に贈て戦死の時の形勢を願くは知らせ度思ふなりとありければ、警固の士大に感じ、其冑を勘解由が子に送りけり。
書き下し
○大阪城陷りしかば、盛親、葭蘆の中に潛まり隱れ居たりしが、終に蜂須賀が手に生捕れたり。盛親に縄二筋付けて白州に引き居ゑたり。秀忠側の士を以て數千の大將たる身、自害をすべきことゝなるに、左はなかりしは如何ぞと尋ねらる。盛親わるびれたる色もなく、朝の軍に打勝ちたれども、後の軍に、赤備の軍兵に打合はせて、味方餘多討死し、敗北せしこと、是非なき次第に候と言ふ。又討死するか、自害するか二つの志なかりしこと、返す〳〵も不審なりと再び尋ねられしかば、盛親承はり、盛親も一方の大將たる身に候へば、葉武者と同じく輕々敷討死すべきに候はずと言ひ、再び兵を起して恥を雪ぐべき心、言外に顯はれたりとぞ。 ○盛親、警固の士に謂て曰く、我藤堂高虎の家士に贈り度物あり、其故は矢尾合戰の時、高虎の家臣に藤堂仁右衛門、同勘解由、同新七、桑名彌次兵衛等鎗を合はせ、何れも戰死せり。中にも勘解由只一人に成り、勇を奮て戰死せり。其勢拔群なることにてありし故に、其冑を取り家臣に持たせたり。之を勘解由の子孫に贈て戰死の時の形勢を願くは知らせ度思ふなりとありければ、警固の士大に感じ、其冑を勘解由が子に送りけり。
現代語訳
大阪城が陥落すると、盛親は葦の中に潜み隠れていましたが、ついに蜂須賀の手勢に生け捕られました。盛親は縄二筋を付けられ、白洲に引き据えられました。秀忠は側近の士を通じて、数千の大将たる身は、自害をすべきところなのに、そうしなかったのはどうしてか、と尋ねられました。盛親は悪びれた様子もなく、朝の戦に打ち勝ちましたが、後の戦で、赤備えの軍兵に打ち合わされ、味方が数多く討ち死にして敗北したことは、是非もない次第です、と言いました。また、討ち死にするか、自害するか、二つの志がなかったことは、返す返すも不審である、と再び尋ねられたので、盛親は承って、盛親も一方の大将たる身ですから、端武者と同じように軽々しく討ち死にすべきではありません、と言い、再び兵を起こして恥を雪ぐつもりが、言外に顕れていたとのことです。 盛親は警固の士に言いました。私は藤堂高虎の家士に贈りたい物がある。その理由は、八尾の合戦のとき、高虎の家臣の藤堂仁右衛門、同じく勘解由、同じく新七、桑名弥次兵衛らが鑓を合わせ、いずれも戦死した。中でも勘解由はただ一人になって、勇を奮って戦死した。その勢いが抜群であったので、その兜を取って家臣に持たせた。これを勘解由の子孫に贈って、戦死のときの形勢をどうか知らせたいと思う、とありましたので、警固の士は大いに感じ、その兜を勘解由の子に送りました。
解説

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