名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部盛親 浪人から大阪入城
土佐守元親の子、封を襲ひ、正五位に敍し、侍從兼宮内少輔に任す。慶長五年封を失ひ、薙髮して祐夢と號す。元和元年五月十五日死。 ○盛親、天資顯悟、秀吉の寵を得たり。關ヶ原の役、敗れて後封を失ひ、京師に潛居す。慶長の末年、秀頼兵を募る。板倉勝重、盛親が大阪に屬せんことを恐れ、屢盛親を諫む。家康も盛親を招かれんとて、勝重に命ぜらる。勝重、貴殿の爲めに罪を謝し、舊封を得させんと言ふ。時に盛親、大野治長に志を通ずると聞えければ、其友人に命じ、盛親が宅を守衛せしむ。盛僞り、浅野但馬守長晟と舊約あり、今變じ難し、依て紀伊へ行き、其隊に屬し、功を勵み、小錄たりとも受くべしと言ひ、友人を欺き、紀伊へ行くこと疑ひなきの一通の書を勝重に贈らせ、秀頼の招に應ず。盛親の京師に在るや、小家を相國寺門前竹林の中に造り、村童に手跡を敎へ居たり。一朝甲冑を帶し、一人にて立出でしかば、近里の者大に驚きたり。然るに今出川邊にては、二三百人になり、伏見邊にては千騎計りになりて、大阪に赴きしとなり。是は盛親兼ねてより大佛、伏見、東寺、竹田、宇治、長池、玉水邊に舊臣を馬夫船頭等種々様々に拵置き、少々づゝ扶持を遣はし置きたる者共なりとぞ。
新字:土佐守元親の子、封を襲ひ、正五位に叙し、侍従兼宮内少輔に任す。慶長五年封を失ひ、薙髪して祐夢と号す。元和元年五月十五日死。 ○盛親、天資顕悟、秀吉の寵を得たり。関ヶ原の役、敗れて後封を失ひ、京師に潜居す。慶長の末年、秀頼兵を募る。板倉勝重、盛親が大阪に属せんことを恐れ、屡盛親を諫む。家康も盛親を招かれんとて、勝重に命ぜらる。勝重、貴殿の為めに罪を謝し、旧封を得させんと言ふ。時に盛親、大野治長に志を通ずると聞えければ、其友人に命じ、盛親が宅を守衛せしむ。盛偽り、浅野但馬守長晟と旧約あり、今変じ難し、依て紀伊へ行き、其隊に属し、功を励み、小録たりとも受くべしと言ひ、友人を欺き、紀伊へ行くこと疑ひなきの一通の書を勝重に贈らせ、秀頼の招に応ず。盛親の京師に在るや、小家を相国寺門前竹林の中に造り、村童に手跡を教へ居たり。一朝甲冑を帯し、一人にて立出でしかば、近里の者大に驚きたり。然るに今出川辺にては、二三百人になり、伏見辺にては千騎計りになりて、大阪に赴きしとなり。是は盛親兼ねてより大仏、伏見、東寺、竹田、宇治、長池、玉水辺に旧臣を馬夫船頭等種々様々に拵置き、少々づゝ扶持を遣はし置きたる者共なりとぞ。
書き下し
土佐守元親の子、封を襲ひ、正五位に敍し、侍從兼宮内少輔に任す。慶長五年封を失ひ、薙髮して祐夢と號す。元和元年五月十五日死。 ○盛親、天資顯悟、秀吉の寵を得たり。關ヶ原の役、敗れて後封を失ひ、京師に潛居す。慶長の末年、秀頼兵を募る。板倉勝重、盛親が大阪に屬せんことを恐れ、屢盛親を諫む。家康も盛親を招かれんとて、勝重に命ぜらる。勝重、貴殿の爲めに罪を謝し、舊封を得させんと言ふ。時に盛親、大野治長に志を通ずると聞えければ、其友人に命じ、盛親が宅を守衛せしむ。盛僞り、浅野但馬守長晟と舊約あり、今變じ難し、依て紀伊へ行き、其隊に屬し、功を勵み、小錄たりとも受くべしと言ひ、友人を欺き、紀伊へ行くこと疑ひなきの一通の書を勝重に贈らせ、秀頼の招に應ず。盛親の京師に在るや、小家を相國寺門前竹林の中に造り、村童に手跡を敎へ居たり。一朝甲冑を帶し、一人にて立出でしかば、近里の者大に驚きたり。然るに今出川邊にては、二三百人になり、伏見邊にては千騎計りになりて、大阪に赴きしとなり。是は盛親兼ねてより大佛、伏見、東寺、竹田、宇治、長池、玉水邊に舊臣を馬夫船頭等種々様々に拵置き、少々づゝ扶持を遣はし置きたる者共なりとぞ。
現代語訳
土佐守元親の子。封を継ぎ、正五位に叙され、侍従兼宮内少輔に任じられました。慶長五年に封を失い、剃髪して祐夢と号しました。元和元年五月十五日に死去。 盛親は、天資が聡明で、秀吉の寵愛を得ました。関ヶ原の役で敗れたのち、封を失い、京都に潜んで住んでいました。慶長の末年、秀頼が兵を募りました。板倉勝重は、盛親が大阪に属することを恐れ、しばしば盛親を諫めました。家康も盛親を招こうとして、勝重に命じられました。勝重は、あなたのために罪を謝し、旧封を得させましょう、と言いました。そのとき盛親は、大野治長に志を通じていると聞こえたので、その友人に命じて、盛親の宅を守衛させました。盛親は偽って、浅野但馬守長晟と旧約がある、今になって変えがたい、よって紀伊へ行ってその隊に属し、功を励んで、小禄であっても受けようと言い、友人を欺き、紀伊へ行くことは疑いないという旨の一通の書を勝重に贈らせて、秀頼の招きに応じました。盛親が京都にいたときは、小家を相国寺門前の竹林の中に造り、村の子どもに手習いを教えていました。ある朝、甲冑を帯びて、一人で立ち出たので、近隣の者は大いに驚きました。そして今出川のあたりでは二、三百人になり、伏見のあたりでは千騎ばかりになって、大阪に赴いたということです。これは、盛親がかねてから、大仏、伏見、東寺、竹田、宇治、長池、玉水のあたりに、旧臣を馬夫・船頭などさまざまの姿にしてしつらえ置き、少しずつ扶持を与えていた者たちだったとのことです。
解説

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