名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 六千貫から四国へ
○元親、人となり沈毅、善く戰ひ、膂力絶倫智能く人を識り、謀慮節に中る。敵する者は之を伐ち、降る者は之を撫し、内百姓を憐み、外織田、豐臣、徳川、宇喜田等に交はれり。六千貫より起り、竟に四國を平定す。四國の民皆其恩威に服從せり。後秀吉に降りしと雖も、猶土佐一國を領して南海に雄たり。
新字:○元親、人となり沈毅、善く戦ひ、膂力絶倫智能く人を識り、謀慮節に中る。敵する者は之を伐ち、降る者は之を撫し、内百姓を憐み、外織田、豊臣、徳川、宇喜田等に交はれり。六千貫より起り、竟に四国を平定す。四国の民皆其恩威に服従せり。後秀吉に降りしと雖も、猶土佐一国を領して南海に雄たり。
書き下し
○元親、人となり沈毅、善く戰ひ、膂力絶倫智能く人を識り、謀慮節に中る。敵する者は之を伐ち、降る者は之を撫し、内百姓を憐み、外織田、豐臣、徳川、宇喜田等に交はれり。六千貫より起り、竟に四國を平定す。四國の民皆其恩威に服從せり。後秀吉に降りしと雖も、猶土佐一國を領して南海に雄たり。
現代語訳
元親は、人となりが沈着で意志が強く、よく戦い、腕力は並外れ、知恵は人をよく見分け、謀り事は的に中りました。敵する者は討ち、降る者はなでいたわり、国内では百姓をあわれみ、外には織田・豊臣・徳川・宇喜多らと交わりました。六千貫から起こって、ついに四国を平定しました。四国の民は皆、その恩と威に従いました。のちに秀吉に降りましたが、なお土佐一国を領して南海に雄として並び立ちました。
解説
長宗我部元親という人物を、岡谷が簡潔にまとめた総括です。沈毅、膂力、人物を見る目、謀り事の的確さ、そして降る者を撫でるという寛容と、内では百姓を憐れむ姿勢が並べられています。六千貫から起こって四国を平定した、という数字は、元の勢力の小ささと到達点の大きさの対比を示します。ここでは、強さと寛容、内への配慮と外への交際という、両面を備えることが長く領国を保つ力だったと読めます。現代の経営者像にも、攻めと守り、社内と社外の両立という課題が重なります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
長宗我部元親人物評沈毅知人寛容百姓
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名将言行録・『名将言行録』長曾我部元親 麦を刈り分ける○七年春、元親、新名内膳助が籠りし鷲山の城を攻めし時、足輕を出し、其麥作を刈らしむ。其畠畔を一畦隔てゝ刈て、前後の橫畔を枕畔と曰ふ、是も其本畔の通り計りを刈て、其麥作半分を殘せり。是民の作德と曰ふことなるべきなり。百姓之を見て、土佐の仕置宜しかるべし、早く和平あれかしと、民より先づ思ひ付しとぞ。頓て羽床が扱にて、新名元親に降屬せり。 ○十年八月、中富川の役、元親、一宮、奕山の間を通る時に、兩城より鳥銃を放ち、之を劫す、元親令して曰く、此城は小勢なり、小勢と挑み戰ひ玉藥を費し兵を損すること無益なり、棄て通るべし、十河孫六郎存保と戰て勝たば、二城は忽に血ぬらさずして手に入るべしとて、押通る。二十八日、存保と中富川に戰ひ大に之を敗り進み、勝瑞を攻む。中富川の敗卒、坂西城に入る。長曾我部掃部介之を攻め、二三の丸を打敗り、既に本城に乘らんとす。元親使を遣はし、存保を攻亡さば外にある小敵一矢を射ず、潰散せん、兵士を損すること益なし、速に歸り來るべしと言遣りければ、掃部介も兵を揚げ來る。曉に及び、一宮、奕山、坂西の者共城を棄て潰走す、果して元親の計りし如し。九月二十一日、存保遂に城を棄て讃岐に走れり。中富川の役、紀州雜賀の援兵戰に合はざるを悔み、先鋒たらんを乞ふ。元親聞て申さる所尤もなれども、海上我意の如くならざることは、古より然り。遲怠と爲すべからず、年來の約に違はず、速に兵を出さるゝ條、大幸と言ふべし、讃岐の敵は我鋒刄に當るべき者にあらず、或は籠城か、或は逃走るか、戰ふ者あるべからず、左れば速に國に歸らるべしとて、懇に慰めて、其酋長に馬鞍太刀を賜はり、又士卒に兵糧二百石を與へり。紀州の士大に喜びて國に歸り、皆之が用たるを願へり。
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