名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 評・愛子を失う悲しみ
元親が、九州征伐のとき、戸次川で愛子の彌三郎信親を失くしたことは、一生の悲劇であらう。それについて、森鷗外さんの琵琶歌がある。トロイ戰爭のとき愛子を失くしたプライアムス王の悲しみを元親のそれに比べてある。なか〳〵傑作だが、世に行はれてゐない。
新字:元親が、九州征伐のとき、戸次川で愛子の弥三郎信親を失くしたことは、一生の悲劇であらう。それについて、森鴎外さんの琵琶歌がある。トロイ戦争のとき愛子を失くしたプライアムス王の悲しみを元親のそれに比べてある。なか〳〵傑作だが、世に行はれてゐない。
書き下し
元親が、九州征伐のとき、戸次川で愛子の彌三郎信親を失くしたことは、一生の悲劇であらう。それについて、森鷗外さんの琵琶歌がある。トロイ戰爭のとき愛子を失くしたプライアムス王の悲しみを元親のそれに比べてある。なか〳〵傑作だが、世に行はれてゐない。
現代語訳
元親が、九州征伐のとき、戸次川で愛する子の弥三郎信親を失ったことは、一生の悲劇でしょう。それについて、森鷗外さんの琵琶歌があります。トロイ戦争のとき愛する子を失ったプリアモス王の悲しみを、元親のそれに比べてあります。なかなか傑作ですが、世に行われていません。
解説
菊池寛は評で、戸次川で信親を失った元親の悲しみを一生の悲劇とし、森鷗外の琵琶歌に触れます。その琵琶歌は、トロイア戦争で愛児を失ったプリアモス王の悲しみと元親の悲しみを重ねた作品だとされ、菊池は傑作だが世に行われていないと惜しんでいます。鷗外のこの作品の詳細は、ここでは確かめられません。この評は短いながら、戦国武将の悲しみを世界の物語の悲しみと並べて読む視点を示しています。歴史上の人物の感情を、時代や国を超えて読む試みと言えるでしょう。

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菊池寛長宗我部元親信親森鴎外琵琶歌悲劇
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