名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 戸次川の諫め
○西海の役、元親、秀吉の先鋒と爲り、十四年十二月、仙石秀久、十河存保等と共に、臼杵に著す。島津義久之を聞き、鶴ヶ城を引拂ひ、戸次川を越て岡山に陣を取る。元親等進み戸次川の庄、山崎に陣す。時に島津家久、二萬餘騎を率る馳來る。義久大に喜び、戸次川の堤に副ひたる小籔の中に鳥銃を伏せ置き、敵川を渡らば半渡にて之を擊留めんとぞ計りける。秀久川を涉て擊んと言ふ。元親此川を涉らんこと尤も無用なり、堤に副うて小籔七八町もあるべし、敵之に鳥銃を伏せ、半途にして打崩すべし、然る時は、味方の先鋒一人も生る者あるまじ、一陣敗るゝ時は、軍利快よからず、唯川を隔て對陣し、敵を籌策に勞せしめてこそ、謀を成すべけれと言ければ、秀久聞て、否々遙々と敵國に來り、敵を見ずして對陣せば、敵を恐るゝの辱に合はん、假令伏兵ありとも、何程のことやあらんと言ければ、存保も是に同じ、川を涉て戰はんと言ふ。元親又地利も知らぬ敵地に入り、詮なき軍して人數を損し給ふなと種々詞を盡して言けれども、秀久存保更に聽かず、明日辰の上刻矢合はせを始むべしとぞ觸たりける。明る十二日、秀久、存保を始め、既に川に打入りける所に、果して伏兵起り、味方散々に打成され、終に總敗軍と成り、九州の地に足を留むることも成らずして引返せり。果して元親の言の如し。此役や、元親の子彌三郎信親戰死す。元親は伊豫の日振浦に退き、其旨を秀吉に達す。秀吉藤堂高虎をして信親の死を弔ひ、懇切に元親の意を慰めらる。元親謹み命を受け、今度無理の一戰を遂げ、家聲を墜すのみならず、天下の嘲を受ることは無念と申べきなり。信親の戰死は、君の爲めなり、弓箭を執るの家戰死を以て、榮と爲す、悔い思ふべきにあらず、希くは賢慮を勞せらるゝこと勿れと言ふ。只爰に陣し、御進發を待つべしと言て、伊豫に陣せり。明年豐前にて秀吉に謁す。秀吉、信親の戰死を悲歎し、落淚數行に及ばれけり。
新字:○西海の役、元親、秀吉の先鋒と為り、十四年十二月、仙石秀久、十河存保等と共に、臼杵に著す。島津義久之を聞き、鶴ヶ城を引払ひ、戸次川を越て岡山に陣を取る。元親等進み戸次川の庄、山崎に陣す。時に島津家久、二万余騎を率る馳来る。義久大に喜び、戸次川の堤に副ひたる小籔の中に鳥銃を伏せ置き、敵川を渡らば半渡にて之を撃留めんとぞ計りける。秀久川を渉て撃んと言ふ。元親此川を渉らんこと尤も無用なり、堤に副うて小籔七八町もあるべし、敵之に鳥銃を伏せ、半途にして打崩すべし、然る時は、味方の先鋒一人も生る者あるまじ、一陣敗るゝ時は、軍利快よからず、唯川を隔て対陣し、敵を籌策に労せしめてこそ、謀を成すべけれと言ければ、秀久聞て、否々遥々と敵国に来り、敵を見ずして対陣せば、敵を恐るゝの辱に合はん、仮令伏兵ありとも、何程のことやあらんと言ければ、存保も是に同じ、川を渉て戦はんと言ふ。元親又地利も知らぬ敵地に入り、詮なき軍して人数を損し給ふなと種々詞を尽して言けれども、秀久存保更に聴かず、明日辰の上刻矢合はせを始むべしとぞ触たりける。明る十二日、秀久、存保を始め、既に川に打入りける所に、果して伏兵起り、味方散々に打成され、終に総敗軍と成り、九州の地に足を留むることも成らずして引返せり。果して元親の言の如し。此役や、元親の子弥三郎信親戦死す。元親は伊予の日振浦に退き、其旨を秀吉に達す。秀吉藤堂高虎をして信親の死を弔ひ、懇切に元親の意を慰めらる。元親謹み命を受け、今度無理の一戦を遂げ、家声を墜すのみならず、天下の嘲を受ることは無念と申べきなり。信親の戦死は、君の為めなり、弓箭を執るの家戦死を以て、栄と為す、悔い思ふべきにあらず、希くは賢慮を労せらるゝこと勿れと言ふ。只爰に陣し、御進発を待つべしと言て、伊予に陣せり。明年豊前にて秀吉に謁す。秀吉、信親の戦死を悲嘆し、落涙数行に及ばれけり。
書き下し
○西海の役、元親、秀吉の先鋒と爲り、十四年十二月、仙石秀久、十河存保等と共に、臼杵に著す。島津義久之を聞き、鶴ヶ城を引拂ひ、戸次川を越て岡山に陣を取る。元親等進み戸次川の庄、山崎に陣す。時に島津家久、二萬餘騎を率る馳來る。義久大に喜び、戸次川の堤に副ひたる小籔の中に鳥銃を伏せ置き、敵川を渡らば半渡にて之を擊留めんとぞ計りける。秀久川を涉て擊んと言ふ。元親此川を涉らんこと尤も無用なり、堤に副うて小籔七八町もあるべし、敵之に鳥銃を伏せ、半途にして打崩すべし、然る時は、味方の先鋒一人も生る者あるまじ、一陣敗るゝ時は、軍利快よからず、唯川を隔て對陣し、敵を籌策に勞せしめてこそ、謀を成すべけれと言ければ、秀久聞て、否々遙々と敵國に來り、敵を見ずして對陣せば、敵を恐るゝの辱に合はん、假令伏兵ありとも、何程のことやあらんと言ければ、存保も是に同じ、川を涉て戰はんと言ふ。元親又地利も知らぬ敵地に入り、詮なき軍して人數を損し給ふなと種々詞を盡して言けれども、秀久存保更に聽かず、明日辰の上刻矢合はせを始むべしとぞ觸たりける。明る十二日、秀久、存保を始め、既に川に打入りける所に、果して伏兵起り、味方散々に打成され、終に總敗軍と成り、九州の地に足を留むることも成らずして引返せり。果して元親の言の如し。此役や、元親の子彌三郎信親戰死す。元親は伊豫の日振浦に退き、其旨を秀吉に達す。秀吉藤堂高虎をして信親の死を弔ひ、懇切に元親の意を慰めらる。元親謹み命を受け、今度無理の一戰を遂げ、家聲を墜すのみならず、天下の嘲を受ることは無念と申べきなり。信親の戰死は、君の爲めなり、弓箭を執るの家戰死を以て、榮と爲す、悔い思ふべきにあらず、希くは賢慮を勞せらるゝこと勿れと言ふ。只爰に陣し、御進發を待つべしと言て、伊豫に陣せり。明年豐前にて秀吉に謁す。秀吉、信親の戰死を悲歎し、落淚數行に及ばれけり。
現代語訳
西海の役で、元親は秀吉の先鋒となり、十四年十二月、仙石秀久、十河存保らとともに、臼杵に着きました。島津義久はこれを聞き、鶴ヶ城を引き払って、戸次川を越えて岡山に陣を取りました。元親らは進んで、戸次川の庄の山崎に陣しました。このとき島津家久が二万余騎を率いて馳せ来ました。義久は大いに喜び、戸次川の堤に沿った小藪の中に鉄砲を伏せておき、敵が川を渡れば、半ば渡ったところで撃ち止めようと謀りました。秀久は、川を渡って撃とうと言いました。元親は、この川を渡ることは最も無用である。堤に沿って小藪が七、八町もあるはずで、敵がそこに鉄砲を伏せ、渡りかけたところを打ち崩すだろう。そうなれば味方の先鋒は一人も生き残るまい。一陣が敗れる時は、戦いの利は快くない。ただ川を隔てて対陣し、敵に策を巡らす苦労をさせてこそ、謀はなるのだ、と言いました。秀久は聞いて、いやいや、遥々と敵国に来て、敵を見ずに対陣するのは、敵を恐れた恥にあうことになる。たとえ伏兵があっても、どれほどのことがあろうか、と言いました。存保もこれに同じで、川を渡って戦おうと言いました。元親はまた、地の利も知らない敵地に入って、詮のない戦をして人数を損なわれるな、と、さまざまに言葉を尽くして言いましたが、秀久と存保はまったく聞かず、明日辰の上刻に矢合わせを始めると触れました。明くる十二日、秀久、存保をはじめ、すでに川に打ち入ったところ、果たして伏兵が起こり、味方は散々に打ち負かされ、ついに総敗軍となり、九州の地に足を留めることもできず、引き返しました。果たして元親の言のとおりでした。この戦いで、元親の子の弥三郎信親が戦死しました。元親は伊予の日振浦に退き、その旨を秀吉に届けました。秀吉は藤堂高虎に信親の死を弔わせ、ねんごろに元親の気持ちを慰められました。元親は謹んで命を受け、このたび無理な一戦を遂げ、家の名を落とすだけでなく、天下の嘲りを受けることは無念というべきです。信親が戦死したのは、君のためです。弓矢を取る家は戦死をもって栄えとします。悔い思うべきではありません。どうか賢慮を労されませんように、と言いました。ただここに陣して、ご進発をお待ちしますと言って、伊予に陣しました。翌年、豊前で秀吉に謁しました。秀吉は信親の戦死を悲歎し、涙が数行に及ばれました。
解説

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