名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 評・成金大名の世
四國を一統した丈あり、相當の人物である。よく義理人情を辨へ、人民を愛することを知つてゐる。政治家としても、相當の素質があつたわけである。やはり、武勇だけでは數ヶ國を領有することは出來ないのである。 戰國時代、ベストテンの中には、位置する武將である。僕の故鄕は讃岐である。戰國時代の讃岐には、香川、香西、十河、安西、三谷などの豪族がゐた。これらは、上代より續いてゐる名族で、各自二、三萬位を領有してゐたのである。長曾我部が侵入して來たとき、彼等は一戰を交へた後、悉く降つたのである。が、元親は、そのいづれをも亡ぼさず、舊領を安堵せしめた。が、元親が秀吉に屈服したため、讃岐は秀吉領となり、仙石權兵衞が讃岐に封ぜられるに及んで、讃岐の舊名家は、悉く滅亡したのである。思ふに、他の諸國に於て、戰國時代の初までは、上代からの名家が澤山あつたのである。それが、戰國時代に至つて、大部分新勢力に依つて、取つて代はられたのである。日本中で、昔からの大名で、戰國時代を生きのびたのは、奥州の伊達、相馬、秋田の佐竹(常陸から移る)米澤の上杉、九州の島津、松浦などの數氏に過ぎないのである。その他は、戰國時代の成金大名である。
新字:四国を一統した丈あり、相当の人物である。よく義理人情を弁へ、人民を愛することを知つてゐる。政治家としても、相当の素質があつたわけである。やはり、武勇だけでは数ヶ国を領有することは出来ないのである。 戦国時代、ベストテンの中には、位置する武将である。僕の故郷は讃岐である。戦国時代の讃岐には、香川、香西、十河、安西、三谷などの豪族がゐた。これらは、上代より続いてゐる名族で、各自二、三万位を領有してゐたのである。長曽我部が侵入して来たとき、彼等は一戦を交へた後、悉く降つたのである。が、元親は、そのいづれをも亡ぼさず、旧領を安堵せしめた。が、元親が秀吉に屈服したため、讃岐は秀吉領となり、仙石権兵衛が讃岐に封ぜられるに及んで、讃岐の旧名家は、悉く滅亡したのである。思ふに、他の諸国に於て、戦国時代の初までは、上代からの名家が沢山あつたのである。それが、戦国時代に至つて、大部分新勢力に依つて、取つて代はられたのである。日本中で、昔からの大名で、戦国時代を生きのびたのは、奥州の伊達、相馬、秋田の佐竹(常陸から移る)米沢の上杉、九州の島津、松浦などの数氏に過ぎないのである。その他は、戦国時代の成金大名である。
書き下し
四國を一統した丈あり、相當の人物である。よく義理人情を辨へ、人民を愛することを知つてゐる。政治家としても、相當の素質があつたわけである。やはり、武勇だけでは數ヶ國を領有することは出來ないのである。 戰國時代、ベストテンの中には、位置する武將である。僕の故鄕は讃岐である。戰國時代の讃岐には、香川、香西、十河、安西、三谷などの豪族がゐた。これらは、上代より續いてゐる名族で、各自二、三萬位を領有してゐたのである。長曾我部が侵入して來たとき、彼等は一戰を交へた後、悉く降つたのである。が、元親は、そのいづれをも亡ぼさず、舊領を安堵せしめた。が、元親が秀吉に屈服したため、讃岐は秀吉領となり、仙石權兵衞が讃岐に封ぜられるに及んで、讃岐の舊名家は、悉く滅亡したのである。思ふに、他の諸國に於て、戰國時代の初までは、上代からの名家が澤山あつたのである。それが、戰國時代に至つて、大部分新勢力に依つて、取つて代はられたのである。日本中で、昔からの大名で、戰國時代を生きのびたのは、奥州の伊達、相馬、秋田の佐竹(常陸から移る)米澤の上杉、九州の島津、松浦などの數氏に過ぎないのである。その他は、戰國時代の成金大名である。
現代語訳
四国を一統しただけあって、相当の人物です。よく義理人情をわきまえ、人民を愛することを知っています。政治家としても、相当の素質があったわけです。やはり、武勇だけでは数か国を領有することはできないのです。 戦国時代のベストテンの中には、位置する武将です。僕の故郷は讃岐です。戦国時代の讃岐には、香川、香西、十河、安西、三谷などの豪族がいました。これらは、上代から続いている名族で、各自二、三万石くらいを領有していたのです。長曽我部が侵入してきたとき、彼らは一戦を交えたのち、ことごとく降りました。が、元親は、そのいずれをも滅ぼさず、旧領を安堵させました。が、元親が秀吉に屈服したため、讃岐は秀吉領となり、仙石権兵衛が讃岐に封ぜられるに及んで、讃岐の旧名家は、ことごとく滅亡したのです。思うに、ほかの諸国においても、戦国時代の初めまでは、上代からの名家がたくさんあったのです。それが、戦国時代に至って、大部分、新勢力によって取って代わられたのです。日本中で、昔からの大名で、戦国時代を生き延びたのは、奥州の伊達、相馬、秋田の佐竹(常陸から移る)、米沢の上杉、九州の島津、松浦などの数氏に過ぎないのです。そのほかは、戦国時代の成金大名です。
解説

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名将言行録・『名将言行録』長曾我部元親 臆せず大阪へ上る○十三年、元親既に秀吉に降り、老臣を集めて曰く、我既に降參の上は、近日大阪に上り、恩惠を謝せんと思ふなり、用意のこと申付くべしとなり、何れも承はり、當時亂國にして、人心の反復常ならず、一と先づ上方の形勢をも御覽ぜられ、來春御上り然るべしと申す。元親曰く、汝等が申所至極せり、去ながら、秀吉天下の武將と成り、一言を以て信と爲す、反覆の小人にあらず、且つ我日來誠實を以て人に交はれり、去れば何ぞ恐るゝことあらん、とて頓て宗徒の兵五十餘人を引具し、大阪に至り秀吉に謁す。秀吉、果して大に喜び、饗應善美を盡せり。
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