名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 麦を刈り分ける
○七年春、元親、新名内膳助が籠りし鷲山の城を攻めし時、足輕を出し、其麥作を刈らしむ。其畠畔を一畦隔てゝ刈て、前後の橫畔を枕畔と曰ふ、是も其本畔の通り計りを刈て、其麥作半分を殘せり。是民の作德と曰ふことなるべきなり。百姓之を見て、土佐の仕置宜しかるべし、早く和平あれかしと、民より先づ思ひ付しとぞ。頓て羽床が扱にて、新名元親に降屬せり。 ○十年八月、中富川の役、元親、一宮、奕山の間を通る時に、兩城より鳥銃を放ち、之を劫す、元親令して曰く、此城は小勢なり、小勢と挑み戰ひ玉藥を費し兵を損すること無益なり、棄て通るべし、十河孫六郎存保と戰て勝たば、二城は忽に血ぬらさずして手に入るべしとて、押通る。二十八日、存保と中富川に戰ひ大に之を敗り進み、勝瑞を攻む。中富川の敗卒、坂西城に入る。長曾我部掃部介之を攻め、二三の丸を打敗り、既に本城に乘らんとす。元親使を遣はし、存保を攻亡さば外にある小敵一矢を射ず、潰散せん、兵士を損すること益なし、速に歸り來るべしと言遣りければ、掃部介も兵を揚げ來る。曉に及び、一宮、奕山、坂西の者共城を棄て潰走す、果して元親の計りし如し。九月二十一日、存保遂に城を棄て讃岐に走れり。中富川の役、紀州雜賀の援兵戰に合はざるを悔み、先鋒たらんを乞ふ。元親聞て申さる所尤もなれども、海上我意の如くならざることは、古より然り。遲怠と爲すべからず、年來の約に違はず、速に兵を出さるゝ條、大幸と言ふべし、讃岐の敵は我鋒刄に當るべき者にあらず、或は籠城か、或は逃走るか、戰ふ者あるべからず、左れば速に國に歸らるべしとて、懇に慰めて、其酋長に馬鞍太刀を賜はり、又士卒に兵糧二百石を與へり。紀州の士大に喜びて國に歸り、皆之が用たるを願へり。
新字:○七年春、元親、新名内膳助が籠りし鷲山の城を攻めし時、足軽を出し、其麦作を刈らしむ。其畠畔を一畦隔てゝ刈て、前後の横畔を枕畔と曰ふ、是も其本畔の通り計りを刈て、其麦作半分を残せり。是民の作徳と曰ふことなるべきなり。百姓之を見て、土佐の仕置宜しかるべし、早く和平あれかしと、民より先づ思ひ付しとぞ。頓て羽床が扱にて、新名元親に降属せり。 ○十年八月、中富川の役、元親、一宮、奕山の間を通る時に、両城より鳥銃を放ち、之を劫す、元親令して曰く、此城は小勢なり、小勢と挑み戦ひ玉薬を費し兵を損すること無益なり、棄て通るべし、十河孫六郎存保と戦て勝たば、二城は忽に血ぬらさずして手に入るべしとて、押通る。二十八日、存保と中富川に戦ひ大に之を敗り進み、勝瑞を攻む。中富川の敗卒、坂西城に入る。長曽我部掃部介之を攻め、二三の丸を打敗り、既に本城に乗らんとす。元親使を遣はし、存保を攻亡さば外にある小敵一矢を射ず、潰散せん、兵士を損すること益なし、速に帰り来るべしと言遣りければ、掃部介も兵を揚げ来る。暁に及び、一宮、奕山、坂西の者共城を棄て潰走す、果して元親の計りし如し。九月二十一日、存保遂に城を棄て讃岐に走れり。中富川の役、紀州雑賀の援兵戦に合はざるを悔み、先鋒たらんを乞ふ。元親聞て申さる所尤もなれども、海上我意の如くならざることは、古より然り。遅怠と為すべからず、年来の約に違はず、速に兵を出さるゝ条、大幸と言ふべし、讃岐の敵は我鋒刄に当るべき者にあらず、或は籠城か、或は逃走るか、戦ふ者あるべからず、左れば速に国に帰らるべしとて、懇に慰めて、其酋長に馬鞍太刀を賜はり、又士卒に兵糧二百石を与へり。紀州の士大に喜びて国に帰り、皆之が用たるを願へり。
書き下し
○七年春、元親、新名内膳助が籠りし鷲山の城を攻めし時、足輕を出し、其麥作を刈らしむ。其畠畔を一畦隔てゝ刈て、前後の橫畔を枕畔と曰ふ、是も其本畔の通り計りを刈て、其麥作半分を殘せり。是民の作德と曰ふことなるべきなり。百姓之を見て、土佐の仕置宜しかるべし、早く和平あれかしと、民より先づ思ひ付しとぞ。頓て羽床が扱にて、新名元親に降屬せり。 ○十年八月、中富川の役、元親、一宮、奕山の間を通る時に、兩城より鳥銃を放ち、之を劫す、元親令して曰く、此城は小勢なり、小勢と挑み戰ひ玉藥を費し兵を損すること無益なり、棄て通るべし、十河孫六郎存保と戰て勝たば、二城は忽に血ぬらさずして手に入るべしとて、押通る。二十八日、存保と中富川に戰ひ大に之を敗り進み、勝瑞を攻む。中富川の敗卒、坂西城に入る。長曾我部掃部介之を攻め、二三の丸を打敗り、既に本城に乘らんとす。元親使を遣はし、存保を攻亡さば外にある小敵一矢を射ず、潰散せん、兵士を損すること益なし、速に歸り來るべしと言遣りければ、掃部介も兵を揚げ來る。曉に及び、一宮、奕山、坂西の者共城を棄て潰走す、果して元親の計りし如し。九月二十一日、存保遂に城を棄て讃岐に走れり。中富川の役、紀州雜賀の援兵戰に合はざるを悔み、先鋒たらんを乞ふ。元親聞て申さる所尤もなれども、海上我意の如くならざることは、古より然り。遲怠と爲すべからず、年來の約に違はず、速に兵を出さるゝ條、大幸と言ふべし、讃岐の敵は我鋒刄に當るべき者にあらず、或は籠城か、或は逃走るか、戰ふ者あるべからず、左れば速に國に歸らるべしとて、懇に慰めて、其酋長に馬鞍太刀を賜はり、又士卒に兵糧二百石を與へり。紀州の士大に喜びて國に歸り、皆之が用たるを願へり。
現代語訳
七年春、元親が新名内膳助の籠もった鷲山の城を攻めたとき、足軽を出して、その麦作を刈らせました。その畑の畔を一畦おいて刈り、前後の横畔を枕畔といい、これも本の畔の通りだけを刈って、その麦作の半分を残しました。これは民の作徳ということなのでしょう。百姓はこれを見て、土佐の仕置はよろしいようだ、早く和平があればよいのに、と、民のほうから先に思いつきました。やがて羽床の仲介で、新名は元親に降り属しました。 十年八月、中富川の役で、元親が一宮と奕山の間を通るとき、両城から鉄砲を放って脅かしました。元親は命じて言いました。この城は小勢である。小勢と挑み戦って、弾薬を費やし兵を損なうのは無益である。捨てて通れ。十河孫六郎存保と戦って勝てば、二城はたちまち血を塗らずに手に入るだろう、と、押し通りました。二十八日、存保と中富川で戦って大いにこれを破り、進んで勝瑞を攻めました。中富川の敗卒は、坂西城に入りました。長曽我部掃部介がこれを攻め、二の丸・三の丸を打ち破り、すでに本城に乗り込もうとしていました。元親は使いを遣わし、存保を攻め滅ぼせば、外にある小敵は一矢も射ずに潰れ散るだろう。兵士を損なっても益がない。速やかに帰ってこい、と言い送ったので、掃部介も兵を引いて戻りました。明け方になると、一宮・奕山・坂西の者たちは、城を捨てて潰走しました。果たして元親の見込んだとおりでした。九月二十一日、存保はついに城を捨てて讃岐へ走りました。中富川の役で、紀州の雑賀の援兵が戦いに間に合わなかったのを悔い、先鋒となることを願い出ました。元親はこれを聞いて、申されるところはもっともだが、海上が意のままにならないことは昔からそうである。遅れたとすべきではない。年来の約束に違わず、速やかに兵を出されたのは、大幸というべきである。讃岐の敵は我が鋒に当たれる者ではない。あるいは籠城するか、あるいは逃げるかで、戦う者はあるまい。だから速やかに国に帰られよ、と、ねんごろに慰めて、その酋長に馬・鞍・太刀を賜り、また士卒に兵糧二百石を与えました。紀州の士は大いに喜んで国に帰り、皆、今後の用に立つことを願いました。
解説

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