名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 病と称して判を押さず
九州平均の後、褒賞として、大隅の國を賜はりしが、功なくして受くべきにあらずと言て、固辭して受けず。 ○十八年、元親、土佐一州の田園を測量し、悉く貢賦の法を制定し、詳に臣士の祿邑を記載せしむ。數年を經て、而る後檢簿成る。今に及で之を稱せり。 ○征韓の役、諸將昌原の城に集り、議して曰く、小西行長居る所の城、我陣を離れ、敵境に近し、我陣と敵との間の河あり、故に此河の此方なれば、我陣營は近ければ、爰に築て之に居らしむべしと。元親曰く、敵陣に近付て築きし城なり、今引入ること如何なり、且つ彼城我陣を離るゝと雖も、敵陣とは猶境を隔てり、彼城をして敵境に入て築くこと然るべし、我陣邊に引て築くことは然るべからずと。諸將、又議す。元親病と稱して出でず。諸將之を促す。元親止を得ず、子右衞門太郎盛親をして、其席に臨ましむ。諸將連署して、秀吉に達す。元親判形を加へず、秀吉之を見て大に其怯を怒り、且つ元親の判形なきを怪みて之を問ふ。元親病みて其席に出でず、右衞門太郎盛親をして之に臨ましむると聞て、大に感じ、此事は元親の意には協はざるべし、意に協はざるとて、橫目等の申事も破り難ければ、病氣と言て出ざるなり、一人の武功を以て家を立て、名を揚ぐる者は衆人とは異なれりと言て、大に之を褒稱せり。歸朝の後、秀吉此事を語られて、大に其勇意を賞せられ、鎧を盛親に賜はれり。
新字:九州平均の後、褒賞として、大隅の国を賜はりしが、功なくして受くべきにあらずと言て、固辞して受けず。 ○十八年、元親、土佐一州の田園を測量し、悉く貢賦の法を制定し、詳に臣士の禄邑を記載せしむ。数年を経て、而る後検簿成る。今に及で之を称せり。 ○征韓の役、諸将昌原の城に集り、議して曰く、小西行長居る所の城、我陣を離れ、敵境に近し、我陣と敵との間の河あり、故に此河の此方なれば、我陣営は近ければ、爰に築て之に居らしむべしと。元親曰く、敵陣に近付て築きし城なり、今引入ること如何なり、且つ彼城我陣を離るゝと雖も、敵陣とは猶境を隔てり、彼城をして敵境に入て築くこと然るべし、我陣辺に引て築くことは然るべからずと。諸将、又議す。元親病と称して出でず。諸将之を促す。元親止を得ず、子右衛門太郎盛親をして、其席に臨ましむ。諸将連署して、秀吉に達す。元親判形を加へず、秀吉之を見て大に其怯を怒り、且つ元親の判形なきを怪みて之を問ふ。元親病みて其席に出でず、右衛門太郎盛親をして之に臨ましむると聞て、大に感じ、此事は元親の意には協はざるべし、意に協はざるとて、横目等の申事も破り難ければ、病気と言て出ざるなり、一人の武功を以て家を立て、名を揚ぐる者は衆人とは異なれりと言て、大に之を褒称せり。帰朝の後、秀吉此事を語られて、大に其勇意を賞せられ、鎧を盛親に賜はれり。
書き下し
九州平均の後、褒賞として、大隅の國を賜はりしが、功なくして受くべきにあらずと言て、固辭して受けず。 ○十八年、元親、土佐一州の田園を測量し、悉く貢賦の法を制定し、詳に臣士の祿邑を記載せしむ。數年を經て、而る後檢簿成る。今に及で之を稱せり。 ○征韓の役、諸將昌原の城に集り、議して曰く、小西行長居る所の城、我陣を離れ、敵境に近し、我陣と敵との間の河あり、故に此河の此方なれば、我陣營は近ければ、爰に築て之に居らしむべしと。元親曰く、敵陣に近付て築きし城なり、今引入ること如何なり、且つ彼城我陣を離るゝと雖も、敵陣とは猶境を隔てり、彼城をして敵境に入て築くこと然るべし、我陣邊に引て築くことは然るべからずと。諸將、又議す。元親病と稱して出でず。諸將之を促す。元親止を得ず、子右衞門太郎盛親をして、其席に臨ましむ。諸將連署して、秀吉に達す。元親判形を加へず、秀吉之を見て大に其怯を怒り、且つ元親の判形なきを怪みて之を問ふ。元親病みて其席に出でず、右衞門太郎盛親をして之に臨ましむると聞て、大に感じ、此事は元親の意には協はざるべし、意に協はざるとて、橫目等の申事も破り難ければ、病氣と言て出ざるなり、一人の武功を以て家を立て、名を揚ぐる者は衆人とは異なれりと言て、大に之を褒稱せり。歸朝の後、秀吉此事を語られて、大に其勇意を賞せられ、鎧を盛親に賜はれり。
現代語訳
九州平定ののち、褒賞として大隅の国を賜りましたが、功がないのに受けるべきではないと言って、固辞して受けませんでした。 十八年、元親は土佐一州の田園を測量し、ことごとく貢賦の法を制定し、くわしく家臣の禄邑を記載させました。数年を経て、その後に検簿ができ上がりました。今に至るまで、これを称えています。 征韓の役で、諸将は昌原の城に集まり、協議して言いました。小西行長が居る城は、我が陣を離れ、敵境に近い。我が陣と敵との間に河がある。だから、この河のこちら側なら、我が陣営に近いので、ここに築いて居らせるのがよい、と。元親は言いました。敵陣に近付いて築いた城である。今、引き入れることはどうだろうか。かつ、その城は我が陣を離れているといっても、敵陣とはなお境を隔てている。その城は敵境に入って築くのがよい。我が陣のあたりへ引いて築くのはよくない、と。諸将はまた協議しました。元親は病と称して出ませんでした。諸将はこれを促しました。元親はやむを得ず、子の右衛門太郎盛親をその席に臨ませました。諸将は連署して秀吉に届けました。元親は判形を加えませんでした。秀吉はこれを見て、大いにその怯えを怒り、かつ元親の判形がないのを不審に思ってこれを尋ねました。元親は病んで席に出ず、右衛門太郎盛親をこれに臨ませたと聞いて、大いに感じ、このことは元親の意には合わなかったのだろう。意に合わなくても、横目などの申すことも破りがたいので、病気と言って出ないのだ。一人の武功で家を立て、名を挙げる者は、衆人とは異なるのだ、と言って、大いにこれを褒め称えました。帰朝ののち、秀吉はこの事を語られて、大いにその勇気を賞せられ、鎧を盛親に賜りました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』長曾我部元親 六千貫から四国へ○元親、人となり沈毅、善く戰ひ、膂力絶倫智能く人を識り、謀慮節に中る。敵する者は之を伐ち、降る者は之を撫し、内百姓を憐み、外織田、豐臣、徳川、宇喜田等に交はれり。六千貫より起り、竟に四國を平定す。四國の民皆其恩威に服從せり。後秀吉に降りしと雖も、猶土佐一國を領して南海に雄たり。
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名将言行録・『名将言行録』長曾我部元親 狭間の高さと道具の名○此役、泗川に城を築きし時、門脇の狹間を垣見和泉守家純上げて切れと下知しけるを元親聞て、人の胸當りより腰當りを當てゝ、切りたるこそよけれと言ふ。家純下げたらば、敵城內を窺ふべきと言ふ。元親曰く、此城へ敵押寄せ、快よく内を見る程に城兵弱りたらば、一支もすべきや、上げて切らば、敵の首の上を射べしと言て笑へり。 ○元親、土佐にて弓箭盛りなりし頃、一家中の者、各役の道具、番道具に至るまで、一々持主の名を印し置きて、平生にも取り違へぬ樣に爲し置けり。戰場にて取落す樣のことあれば、其者の失錯と爲る、之に依り持つ者、何れも氣を付け粗略にせざりしとぞ。 ○秀吉嘗て舟遊に出けるに、諸大名何れも舟の漕戻る岸に居たりけるに、秀吉舟より饅頭を一つづゝ取て諸大名に手づから賜はる。何れも戴て之を食す。其中に元親も同前に賜はりしが、少し端を闕て食し、御前を退き、土手陰に行き我連來りたる侍共を呼寄せて曰く、只今御手づから拜領申たる饅頭なり、冥加の爲めに、各に頂戴させんと思ひ、是まで來りたりと言て、少しづゝ割て與ふ。諸大名の供の者共、是を見て元親が志を感じ羨みしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』長曾我部元親 初陣と鑓の問い宮内少輔元國の子、從四位下に敍し、侍從兼土佐守に任じ、岡豐城に住す。慶長四年五月十九日卒、年六十一。 ○元親、初め彌三郎と曰ふ。年十八、用兵の道を泰泉寺豐後に問ふ。豐後教ふるに、兵理を以てす。元親大に喜び、是より日夜兵書を講究し、手に卷を捐てず。又儒教を侑び、信西堂忍性を以て師と爲し、月中六日士庶を集め書を讀み、武を講ぜしむ。 ○永祿三年五月二十六日、元國本山梅慶が屬城長濱を拔く。元親曰く、梅慶長濱を陷るを聞かば、必ず兵を出し、城を取返さんとせん、我未だ鎗の突樣を知らずとて、泰泉寺豐後に問ふ。豐後鎗は敵の眼を突と申候と言ふ。元親、又大將は先きに行くか、後に行くかと問ふ。豐後、大將は掛らずと申事候と言ふ、二十九日、梅慶果して一千餘人を率ゐ、長濱に打出る。元親三百餘人を以て潮堤の上に出逢ひ戰ひしが、衆寡敵せず、味方散々に打成さる。元親五十餘人を以て堤の上に折り敷、鎗を以て敵二人を突伏る、味方其銳氣を見て一旦逃げし者取て返し突掛る、爰に於て敵又崩立て、元親牛里程追擊し、首七十餘級を得たり。夫より鹽江村と曰ふ所まで追て行く、敵返さずして本山の居城朝倉を指して引退く。爰に一城あり、元親之を攻取らんとす。兵士皆曰く、味方の寡兵手を碎きて戰勝つことを得たり。勝て胄の緒をしむることあり、必ず戰ひ給ふこと勿れと。元親、勝べきの機あり、掛れと言て、眞先に進みて攻上り、總兵續き攻上り、城中を見れば敵一人もなし、元親遂に二城を得たり。老功の者共打集り、何の故を以て此城の落べきを知り給ひしやと問ふ。元親、本山が敗卒此城に集まるべきことなるに左なくして本山へ引きたるは、此城主も謀反の人なるか、謀反するものならば、味方のものなり、我に向て弓を彎くべからず、若し又敵なりとも、此勝たる勢を以て攻上り、和平を入るならば、必ず降參すべしと思ひしと言はれしかば、人々手を拍て君大將として弓箭を取り給はば、土佐の内は儲置き四國も程なく治めらるべし。箇樣に深き謀を廻らし給ふこと凡慮の及ぶ所にあらずと言て、元親を稱讚せり。此時までは元親は内氣にて、弟の利發なるに如かず、長曾我部の家は繼ぐこと成間敷と、人々騷きしを、此戰より國の士は勿論、一條家の人々までも、土佐の出來人と言て譽ぬ者はなかりけり。