名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 狭間の高さと道具の名
○此役、泗川に城を築きし時、門脇の狹間を垣見和泉守家純上げて切れと下知しけるを元親聞て、人の胸當りより腰當りを當てゝ、切りたるこそよけれと言ふ。家純下げたらば、敵城內を窺ふべきと言ふ。元親曰く、此城へ敵押寄せ、快よく内を見る程に城兵弱りたらば、一支もすべきや、上げて切らば、敵の首の上を射べしと言て笑へり。 ○元親、土佐にて弓箭盛りなりし頃、一家中の者、各役の道具、番道具に至るまで、一々持主の名を印し置きて、平生にも取り違へぬ樣に爲し置けり。戰場にて取落す樣のことあれば、其者の失錯と爲る、之に依り持つ者、何れも氣を付け粗略にせざりしとぞ。 ○秀吉嘗て舟遊に出けるに、諸大名何れも舟の漕戻る岸に居たりけるに、秀吉舟より饅頭を一つづゝ取て諸大名に手づから賜はる。何れも戴て之を食す。其中に元親も同前に賜はりしが、少し端を闕て食し、御前を退き、土手陰に行き我連來りたる侍共を呼寄せて曰く、只今御手づから拜領申たる饅頭なり、冥加の爲めに、各に頂戴させんと思ひ、是まで來りたりと言て、少しづゝ割て與ふ。諸大名の供の者共、是を見て元親が志を感じ羨みしとぞ。
新字:○此役、泗川に城を築きし時、門脇の狭間を垣見和泉守家純上げて切れと下知しけるを元親聞て、人の胸当りより腰当りを当てゝ、切りたるこそよけれと言ふ。家純下げたらば、敵城内を窺ふべきと言ふ。元親曰く、此城へ敵押寄せ、快よく内を見る程に城兵弱りたらば、一支もすべきや、上げて切らば、敵の首の上を射べしと言て笑へり。 ○元親、土佐にて弓箭盛りなりし頃、一家中の者、各役の道具、番道具に至るまで、一々持主の名を印し置きて、平生にも取り違へぬ様に為し置けり。戦場にて取落す様のことあれば、其者の失錯と為る、之に依り持つ者、何れも気を付け粗略にせざりしとぞ。 ○秀吉嘗て舟遊に出けるに、諸大名何れも舟の漕戻る岸に居たりけるに、秀吉舟より饅頭を一つづゝ取て諸大名に手づから賜はる。何れも戴て之を食す。其中に元親も同前に賜はりしが、少し端を闕て食し、御前を退き、土手陰に行き我連来りたる侍共を呼寄せて曰く、只今御手づから拝領申たる饅頭なり、冥加の為めに、各に頂戴させんと思ひ、是まで来りたりと言て、少しづゝ割て与ふ。諸大名の供の者共、是を見て元親が志を感じ羨みしとぞ。
書き下し
○此役、泗川に城を築きし時、門脇の狹間を垣見和泉守家純上げて切れと下知しけるを元親聞て、人の胸當りより腰當りを當てゝ、切りたるこそよけれと言ふ。家純下げたらば、敵城內を窺ふべきと言ふ。元親曰く、此城へ敵押寄せ、快よく内を見る程に城兵弱りたらば、一支もすべきや、上げて切らば、敵の首の上を射べしと言て笑へり。 ○元親、土佐にて弓箭盛りなりし頃、一家中の者、各役の道具、番道具に至るまで、一々持主の名を印し置きて、平生にも取り違へぬ樣に爲し置けり。戰場にて取落す樣のことあれば、其者の失錯と爲る、之に依り持つ者、何れも氣を付け粗略にせざりしとぞ。 ○秀吉嘗て舟遊に出けるに、諸大名何れも舟の漕戻る岸に居たりけるに、秀吉舟より饅頭を一つづゝ取て諸大名に手づから賜はる。何れも戴て之を食す。其中に元親も同前に賜はりしが、少し端を闕て食し、御前を退き、土手陰に行き我連來りたる侍共を呼寄せて曰く、只今御手づから拜領申たる饅頭なり、冥加の爲めに、各に頂戴させんと思ひ、是まで來りたりと言て、少しづゝ割て與ふ。諸大名の供の者共、是を見て元親が志を感じ羨みしとぞ。
現代語訳
この役で、泗川に城を築いたとき、門脇の狭間を、垣見和泉守家純が、上げて切れと指図したのを、元親は聞いて、人の胸のあたりから腰のあたりに当てて切ったのがよい、と言いました。家純は、下げたら、敵が城内をうかがうでしょう、と言いました。元親は言いました。この城へ敵が押し寄せ、気持ちよく中が見えるほど近づいてきたなら、城兵が弱っているのであって、一支えもできるだろうか。上げて切れば、敵の首の上を射ることになる、と言って笑いました。 元親は、土佐で弓矢の勢いが盛んだったころ、一家中の者の、それぞれの役の道具、番の道具に至るまで、一つ一つ持ち主の名を記しておき、普段も取り違えないようにしておきました。戦場で取り落とすようなことがあれば、その者の失策になるので、これによって、持つ者はみな気を付けて、粗略にしなかったということです。 秀吉がかつて舟遊びに出たとき、諸大名は皆、舟が漕ぎ戻る岸にいました。秀吉は舟から饅頭を一つずつ取って、諸大名に手ずから賜りました。皆、いただいてこれを食べました。その中に元親も同じく賜りましたが、少し端を欠いて食べ、御前を退いて、土手の陰に行き、自分が連れてきた侍たちを呼び寄せて言いました。ただ今、お手ずから拝領した饅頭である。御加護のために、おのおのに頂戴させようと思い、ここまで来たのだ、と言って、少しずつ割って与えました。諸大名の供の者たちは、これを見て、元親の志に感じ、羨んだということです。
解説

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