名将言行録 / 『名将言行録』長曾我部元親 剛胆を見抜く目
○元親曰く、人の剛膽を十人目利すれば、十人ながら外るゝことなしと。桑名中内其故を問ふ。元親曰く、極意心持は、詞には延べ難し、然りと雖も、大體違はぬ見所あり、童子の時、武邊物語をするに面白がる童子あり、又いやがり立て退くあり、面白がる者、成人の後二番なるなし、立て逃るに一番なるなし、吾好みたる道は面白く心付好まぬ道は退屈するものぞ。童子の時の心底は年長ずるに及びても替はらぬものなり。是第一の見所なり。其他も見樣色々ありと言ふ。又曰く、我或僧に逢て臆病と云字は何と書くと問へば、むねのやまひと、書くと言へり。是れ程叶ひたる字はあるまじ、數度の合戰に逢て見るに、互に嗜むに依り、左のみ剛臆の病見えず、強敵に逢て鎗を合はせ突立らるれば、むねの病起りて敵詞を掛くれど、後を顧みずして逃げ、日頃嗜みぬれど、むねの病起れば忘るゝなり、又敗軍に逢て腰の抜ける者あり、臆病と一偏に言はれぬものなり、生れ付き不達者にて草臥腰の立たぬ者あり、臆病にて腰立ゝぬは百人の内一二なりと。 ○元親終に臨み、子盛親に命じ、國中諸士の名簿を記さしむ。其功勳ある者を擢び、殊に之を記載せしむ。又久武、親直をして、郡縣を巡觀せしむ。所在の士籍九千七百三十六人を得たり。其中六十一人を擢て練武者と稱すと云ふ。
新字:○元親曰く、人の剛胆を十人目利すれば、十人ながら外るゝことなしと。桑名中内其故を問ふ。元親曰く、極意心持は、詞には延べ難し、然りと雖も、大体違はぬ見所あり、童子の時、武辺物語をするに面白がる童子あり、又いやがり立て退くあり、面白がる者、成人の後二番なるなし、立て逃るに一番なるなし、吾好みたる道は面白く心付好まぬ道は退屈するものぞ。童子の時の心底は年長ずるに及びても替はらぬものなり。是第一の見所なり。其他も見様色々ありと言ふ。又曰く、我或僧に逢て臆病と云字は何と書くと問へば、むねのやまひと、書くと言へり。是れ程叶ひたる字はあるまじ、数度の合戦に逢て見るに、互に嗜むに依り、左のみ剛臆の病見えず、強敵に逢て鎗を合はせ突立らるれば、むねの病起りて敵詞を掛くれど、後を顧みずして逃げ、日頃嗜みぬれど、むねの病起れば忘るゝなり、又敗軍に逢て腰の抜ける者あり、臆病と一偏に言はれぬものなり、生れ付き不達者にて草臥腰の立たぬ者あり、臆病にて腰立ゝぬは百人の内一二なりと。 ○元親終に臨み、子盛親に命じ、国中諸士の名簿を記さしむ。其功勲ある者を擢び、殊に之を記載せしむ。又久武、親直をして、郡県を巡観せしむ。所在の士籍九千七百三十六人を得たり。其中六十一人を擢て練武者と称すと云ふ。
書き下し
○元親曰く、人の剛膽を十人目利すれば、十人ながら外るゝことなしと。桑名中内其故を問ふ。元親曰く、極意心持は、詞には延べ難し、然りと雖も、大體違はぬ見所あり、童子の時、武邊物語をするに面白がる童子あり、又いやがり立て退くあり、面白がる者、成人の後二番なるなし、立て逃るに一番なるなし、吾好みたる道は面白く心付好まぬ道は退屈するものぞ。童子の時の心底は年長ずるに及びても替はらぬものなり。是第一の見所なり。其他も見樣色々ありと言ふ。又曰く、我或僧に逢て臆病と云字は何と書くと問へば、むねのやまひと、書くと言へり。是れ程叶ひたる字はあるまじ、數度の合戰に逢て見るに、互に嗜むに依り、左のみ剛臆の病見えず、強敵に逢て鎗を合はせ突立らるれば、むねの病起りて敵詞を掛くれど、後を顧みずして逃げ、日頃嗜みぬれど、むねの病起れば忘るゝなり、又敗軍に逢て腰の抜ける者あり、臆病と一偏に言はれぬものなり、生れ付き不達者にて草臥腰の立たぬ者あり、臆病にて腰立ゝぬは百人の内一二なりと。 ○元親終に臨み、子盛親に命じ、國中諸士の名簿を記さしむ。其功勳ある者を擢び、殊に之を記載せしむ。又久武、親直をして、郡縣を巡觀せしむ。所在の士籍九千七百三十六人を得たり。其中六十一人を擢て練武者と稱すと云ふ。
現代語訳
元親は言いました。人の剛胆を十人が見立てれば、十人とも外れることはない、と。桑名と中内がその理由を尋ねました。元親は言いました。極意の心持ちは、言葉では述べがたい。そうは言っても、だいたい違わない見どころがある。子どものとき、武辺の物語をすると、面白がる子どもがおり、また嫌がって座を立って退く者もいる。面白がる者は、成人ののちに二番になることはなく、立って逃げる者が一番になることはない。自分の好む道は、面白く心が付き、好まない道は退屈するものだ。子どものときの心底は、年長じても変わらないものである。これが第一の見どころだ。そのほかにも、見様はいろいろある、と言いました。また言いました。私はある僧に会って、臆病という字はどう書くかと問うたところ、「むねのやまひ」と書くと言った。これほど当てはまる字はあるまい。数度の合戦に遭って見ると、互いにたしなむので、さほど剛臆の病は見えない。強敵に出会って鑓を合わせ、突き立てられると、胸の病が起こって、敵が言葉を掛けても、後ろを顧みずに逃げる。日ごろたしなんでいても、胸の病が起こると、忘れてしまうのだ。また、敗軍に遭って腰の抜ける者がいる。臆病とは一概には言えないものだ。生まれ付き不達者で、疲れて腰が立たない者がいる。臆病で腰が立たないのは、百人のうち一、二人である、と。 元親は臨終に際し、子の盛親に命じて、国中の諸士の名簿を記させました。その功勲のある者を選び出して、ことにこれを記載させました。また久武親直に、郡県を巡り見させました。所在の士籍は九千七百三十六人を得ました。その中から六十一人を選び出して、練武者と称したということです。
解説

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