名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 稲葉山城の奇襲
遠江守重元の子、半兵衞尉と稱し、菩提城に住す。天正七年六月十三日卒、年三十六。 ○重治、初め齋藤龍興に仕ふ。人と爲り沈勇溫毅にして、智慮多し。武道研究の外は、皆瑣末なりと思ひし故、小事に精しからず。若き時、人皆重治は心緖大樣にして、國主の長子抔によからん、抔と言はれし程のことなりけり。龍興も重治の愚に見えしを侮て無禮のことゞも多かりける。十九歲の時城に登りてありしに、龍興が侍共、主の常々侮ろに習ひて、矢倉に上り、小便をしかけてけり。重治去らぬ體にもてなし、押拭て己が城に歸り、舅の安藤伊賀守が許に行て、重治は屋形を恨むることの候へば、襲ひ參らせんと思ふなり、加勢賜はるべしと言ふ。安藤も哀れ愚なる人哉、我等が小勢を以て、屋形を傾んこと叶ふ間敷と思ひしかば、此事努々然るべからずと敎訓して歸へす。重治、弟久作重矩兼ねて質として城中に置きけるが、煩ふことあり、傍に侍り居て、醫藥を加へよとて、侍六七人を城中に入れ置き、其日暮方に長持に物具入れて雜人に昇せ、自ら侍十人ばかり引具して城に登る。是は舍弟が病を訪ひ、人々をも饗應せん料の酒飯樣の物にて候と言ひし程に、門每に咎むる者もなく入てけり。詰の城に入すまし、物具ひし〱と固めて、切て入ろ。其夜の番の侍大將齋藤飛驒守をば、重治眞二つに切つて伏せ、斯く小勢なるべしとも思ひも寄らず、俄事にてあり、城中に有合ふ輩周章る所を、十七人の者共爰彼所に切て廻はり、討ろ丶者寡からず、龍興辛き命を助かりて落行きたり。城中には早鐘鳴出で、以の外に騷動しける程に、安藤、偖は重治攻入りけりと、大に驚き手勢引具し鞭鐙合はせて、馳來るに、城をば旣に重治が手に取りてけり。時に永祿五年五月八日なり。
新字:遠江守重元の子、半兵衛尉と称し、菩提城に住す。天正七年六月十三日卒、年三十六。 ○重治、初め斎藤竜興に仕ふ。人と為り沈勇温毅にして、智慮多し。武道研究の外は、皆瑣末なりと思ひし故、小事に精しからず。若き時、人皆重治は心緒大様にして、国主の長子抔によからん、抔と言はれし程のことなりけり。竜興も重治の愚に見えしを侮て無礼のことゞも多かりける。十九歳の時城に登りてありしに、竜興が侍共、主の常々侮ろに習ひて、矢倉に上り、小便をしかけてけり。重治去らぬ体にもてなし、押拭て己が城に帰り、舅の安藤伊賀守が許に行て、重治は屋形を恨むることの候へば、襲ひ参らせんと思ふなり、加勢賜はるべしと言ふ。安藤も哀れ愚なる人哉、我等が小勢を以て、屋形を傾んこと叶ふ間敷と思ひしかば、此事努々然るべからずと教訓して帰へす。重治、弟久作重矩兼ねて質として城中に置きけるが、煩ふことあり、傍に侍り居て、医薬を加へよとて、侍六七人を城中に入れ置き、其日暮方に長持に物具入れて雑人に昇せ、自ら侍十人ばかり引具して城に登る。是は舎弟が病を訪ひ、人々をも饗応せん料の酒飯様の物にて候と言ひし程に、門毎に咎むる者もなく入てけり。詰の城に入すまし、物具ひし〱と固めて、切て入ろ。其夜の番の侍大将斎藤飛驒守をば、重治真二つに切つて伏せ、斯く小勢なるべしとも思ひも寄らず、俄事にてあり、城中に有合ふ輩周章る所を、十七人の者共爰彼所に切て廻はり、討ろ丶者寡からず、竜興辛き命を助かりて落行きたり。城中には早鐘鳴出で、以の外に騷動しける程に、安藤、偖は重治攻入りけりと、大に驚き手勢引具し鞭鐙合はせて、馳来るに、城をば既に重治が手に取りてけり。時に永禄五年五月八日なり。
書き下し
遠江守重元の子、半兵衞尉と稱し、菩提城に住す。天正七年六月十三日卒、年三十六。 ○重治、初め齋藤龍興に仕ふ。人と爲り沈勇溫毅にして、智慮多し。武道研究の外は、皆瑣末なりと思ひし故、小事に精しからず。若き時、人皆重治は心緖大樣にして、國主の長子抔によからん、抔と言はれし程のことなりけり。龍興も重治の愚に見えしを侮て無禮のことゞも多かりける。十九歲の時城に登りてありしに、龍興が侍共、主の常々侮ろに習ひて、矢倉に上り、小便をしかけてけり。重治去らぬ體にもてなし、押拭て己が城に歸り、舅の安藤伊賀守が許に行て、重治は屋形を恨むることの候へば、襲ひ參らせんと思ふなり、加勢賜はるべしと言ふ。安藤も哀れ愚なる人哉、我等が小勢を以て、屋形を傾んこと叶ふ間敷と思ひしかば、此事努々然るべからずと敎訓して歸へす。重治、弟久作重矩兼ねて質として城中に置きけるが、煩ふことあり、傍に侍り居て、醫藥を加へよとて、侍六七人を城中に入れ置き、其日暮方に長持に物具入れて雜人に昇せ、自ら侍十人ばかり引具して城に登る。是は舍弟が病を訪ひ、人々をも饗應せん料の酒飯樣の物にて候と言ひし程に、門每に咎むる者もなく入てけり。詰の城に入すまし、物具ひし〱と固めて、切て入ろ。其夜の番の侍大將齋藤飛驒守をば、重治眞二つに切つて伏せ、斯く小勢なるべしとも思ひも寄らず、俄事にてあり、城中に有合ふ輩周章る所を、十七人の者共爰彼所に切て廻はり、討ろ丶者寡からず、龍興辛き命を助かりて落行きたり。城中には早鐘鳴出で、以の外に騷動しける程に、安藤、偖は重治攻入りけりと、大に驚き手勢引具し鞭鐙合はせて、馳來るに、城をば旣に重治が手に取りてけり。時に永祿五年五月八日なり。
現代語訳
遠江守重元の子、半兵衛尉と称し、菩提城に住んだ。天正七年六月十三日に亡くなり、享年三十六。 重治は、初め斎藤龍興に仕えた。人柄は沈着で勇があり温厚で、智慮が多かった。武道の研究のほかは皆つまらないことと思っていたので、小事には詳しくなかった。若いとき、人は皆、重治は気性が大らかで、国主の長子などによいのではないか、などと言うほどであった。龍興も重治が愚かに見えるのを侮って、無礼なことが多かった。十九歳のとき城に登っていたところ、龍興の侍たちが、主人がいつも侮っているのにならって、矢倉に上って小便をかけた。重治は何事もなかったようにふるまい、拭って自分の城に帰り、舅の安藤伊賀守のもとに行って、重治は屋形を恨むことがあるので、襲おうと思います、加勢をお願いします、と言った。安藤は、哀れな愚か者よ、私の小勢で屋形を傾けることはかなうまいと思ったので、このことは決してよくない、と教訓して帰した。重治は、弟の久作重矩を前から人質として城中に置いていたが、煩うことがあり、そばに付き添って医薬を加えよと、侍六、七人を城中に入れ置き、その日の暮れ方に長持に武具を入れて雑人に担がせ、自ら侍十人ばかりを引き連れて城に登った。これは弟の病を見舞い、人々をも饗応するための酒飯のようなものです、と言ったので、門ごとに咎める者もなく入った。詰の城に入りおおせ、武具をしっかり固めて、斬って入った。その夜の番の侍大将、斎藤飛驒守を、重治は真っ二つに斬って伏せ、これほどの小勢とは思いもよらず、にわかなことだったので、城中にいた者たちが慌てるところを、十七人の者どもがここかしこで斬って回り、討たれる者は少なくなかった。龍興はかろうじて命を助かって落ちて行った。城中には早鐘が鳴り出し、もってのほかに騒動したので、安藤は、さては重治が攻め入ったかと大いに驚き、手勢を引き連れて、鞭鐙を合わせて駆けつけたが、城はすでに重治の手に取られていた。ときに永禄五年五月八日であった。
解説

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