名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 病を押して陣に死す
○天正七年の春、重治、秀吉を助け、三木城を攻む、心地例ならず、醫療を加へんとて京に登り療治せり。病深うして癒ゆること能はずと聞て、去らば軍中にてこそ死なめとて、播磨に馳下り同年六月平山の陣にて卒す。重治、勇謀武略、人恐れ敬はずと云ふことなく、昔の楠木、今の竹中と申しゝなり。重治、三木の陣に在りし日、書寫山にて僧の具數を求めて、高野山に登せ置き、城を攻落したる後は、必ず世を遁れんとせり。是は秀吉、我勢の起るに從ひ、重治に及ばぬ事を知り、彼を深く忌み思ひしに依て斯く思ひ立ちしことゝぞ。死後秀吉人に語て曰く、重治存生の時は、何事にても世に無け敷と思ひしことはなかりしと。 ○重治常に好み書を讀み能く兵に通ぜり。軍書八卷あり、世に行はる、後世竹中流と稱し、其遺法を講ずる者少なからずと云ふ。
新字:○天正七年の春、重治、秀吉を助け、三木城を攻む、心地例ならず、医療を加へんとて京に登り療治せり。病深うして癒ゆること能はずと聞て、去らば軍中にてこそ死なめとて、播磨に馳下り同年六月平山の陣にて卒す。重治、勇謀武略、人恐れ敬はずと云ふことなく、昔の楠木、今の竹中と申しゝなり。重治、三木の陣に在りし日、書写山にて僧の具数を求めて、高野山に登せ置き、城を攻落したる後は、必ず世を遁れんとせり。是は秀吉、我勢の起るに従ひ、重治に及ばぬ事を知り、彼を深く忌み思ひしに依て斯く思ひ立ちしことゝぞ。死後秀吉人に語て曰く、重治存生の時は、何事にても世に無け敷と思ひしことはなかりしと。 ○重治常に好み書を読み能く兵に通ぜり。軍書八巻あり、世に行はる、後世竹中流と称し、其遺法を講ずる者少なからずと云ふ。
書き下し
○天正七年の春、重治、秀吉を助け、三木城を攻む、心地例ならず、醫療を加へんとて京に登り療治せり。病深うして癒ゆること能はずと聞て、去らば軍中にてこそ死なめとて、播磨に馳下り同年六月平山の陣にて卒す。重治、勇謀武略、人恐れ敬はずと云ふことなく、昔の楠木、今の竹中と申しゝなり。重治、三木の陣に在りし日、書寫山にて僧の具數を求めて、高野山に登せ置き、城を攻落したる後は、必ず世を遁れんとせり。是は秀吉、我勢の起るに從ひ、重治に及ばぬ事を知り、彼を深く忌み思ひしに依て斯く思ひ立ちしことゝぞ。死後秀吉人に語て曰く、重治存生の時は、何事にても世に無け敷と思ひしことはなかりしと。 ○重治常に好み書を讀み能く兵に通ぜり。軍書八卷あり、世に行はる、後世竹中流と稱し、其遺法を講ずる者少なからずと云ふ。
現代語訳
天正七年の春、重治は秀吉を助けて三木城を攻めていましたが、体調がいつもと違うので、治療を受けようと京に上って養生しました。病は重く治らないと聞くと、それならば軍中でこそ死のうと、播磨へ馳せ下り、同年六月、平山の陣で亡くなりました。重治は勇気と知謀と武略で、人が恐れ敬わないということがなく、「昔の楠木、今の竹中」と言われました。重治は三木の陣にいたころ、書写山で僧の道具一式を求めて高野山に送り置き、城を攻め落としたあとは、必ず世を捨てようとしていました。これは、秀吉が自分の勢いが盛んになるにつれて重治に及ばないことを悟り、彼を深く忌み嫌っていたので、こう思い立ったのだということです。死後、秀吉は人に語って、「重治が生きていたとき、何事につけても、世にいなければよいと思ったことは一度もなかった」と言いました。 重治はつねに書を読むことを好み、兵法によく通じていました。軍書八巻があり、世に行われています。後世、竹中流と称し、その遺法を講じる者も少なくないということです。
解説

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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 老臣を黙らせた講義と静かな将○重治、當時武道の功者と呼ばれ、其名甚だ高し。織田家の老臣柴田瀧川等之を聞て、竹中は年若く、未だ戰功を積まざれば、定めて虛名ならん、若し彼に逢はゞ、武道の論談し、一言に挫んと密議す。時に重治、秀吉より信長に言上の使者と成り、中國より上京すれば、柴田、瀧川之を聞て、先づ柴田が宅に招待し、諸將も列座して一禮終り、勝家、重治に向て、今度毛利對陣の樣子貴殿定めて始終を知らん、筑州の所存を語られよと言ふ。重治聞て、某は別に筑前守が所存を承はりたること、曾て侍らず、去れば何事をか申べきやと言ふ。然らば貴殿の思入もあらば、願くは語り聞かせられよと言ふ。重治止むこと得ず、毛利弓箭の格、我師の會繹逐一に述べ、某未だ筑前守が口上を述べざれば、先づ御前を濟まし、追て會談すべしと言て退出す。柴田、瀧川、丹羽、佐久間等の諸將始終を聞て大に嗟歎し、聞きしより猶勝りて、今日の講義一ッとして批判すべき所なし、去れば弓箭の才は、事に遇、遇ざるには寄ろべからずと言て何れも讃歎せりとぞ。 ○重治狀貌婦人の如し、軍に臨む時も、猛威なることなく、如何にも靜なる馬に乘り、虎御前と曰ふ刀を常の如く差し、馬の皮にて包めろ甲の上に、木綿の羽織を著、一の谷と名付けたろ冑の緒をしめ、靜まり返て居たり。重治向ふ度每に士卒戰はずして旣に勝たりと勇みたりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 牛の逸話と家の面目○重治陣中に於て常に牛に騎ると曰ふ。時人評して曰く、如何なる半兵衞にてもあれ、何つも心靜に牛に騎るべき所以なし、偶々一兩度牛に騎りたることありたるをば、談話に飾りたるならんと、其沈靜なること斯の如し。 ○重治、平生足の指を動し、寒中にも手を懷にせず、甚だ寒ゆれば、手を摩して居れり。秀吉の前に侍する時も、足を動し、左右片々づゝ休めける。或人怪みて之を問ふ。重治、主人の前にて自身逸樂の爲めに、手足を自由にするは甚だ無禮なり。君用の爲めを思ひ、手足四肢の痺痿んことを思ふは忠と言ふべし、士たる者武を心に忘るべからず、餘の作用は少々違所ありても苦しからず、武道の事に於て名を汚すは士の本意にあらず、若し不處に臨みて足痿れ手凍たると言はれては、其言譯立つべからずと言はれけり。 ○重治、秀吉より賜はる所の自筆の懇書を裂き捨て、此樣なる物を殘し置きては、自分にも後になりては殊に寄りて述懷を生じ、子孫に至りても、其身の不覺悟を忘れて、父には箇樣に御懇にてありし抔とて恨を生ずることあるものなり、と言て捨たり。 ○重治、軍物語の時、子の左京未だ幼なかりしが、座を立て何方へか行き、暫らくして歸り來る。重治軍物語の半に混立つことやあると叱りければ、左京、小便に立ち候と言ふ。重治怒て小便に立度は何にとて座敷にて小便を致さぬぞ、竹中が子が武道の咄に聞入り、座敷を汚したりと言はれなば、我家の面目なりと言はれけり。