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名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 桶狭間へ駆け出す

○永祿三年五月、義元大兵を率ゐ來り攻め、丸根、鷲津を攻落し、桶狹間に陣す。信長は鳴海に打て出防戰の志あり。老臣共大敵なれば、清洲を守り給へと諫むれども、聞き入れず、酒宴して猿樂に羅生門の曲舞を舞はせし時、敵旣に攻來ると告ぐ。信長少しも騷がず、人間五十年間外典の內を競ぶれば夢幻の如しと云ふ所を押返し歌ひて、忽ち螺を吹立さて物具して主從僅かに六騎、歩卒二百人計り驅出で熱田の宮に詣で、願文を神殿に納むる中に、軍兵追續き來れり。偖願文を籠め社頭より歸り、旗を進むる所に、白鷺二つ旗の先きに飛行くを、あれこそ當社大明神の擁護し給ふ驗しよと言て、諸勢を勇めて進みける。源太夫の祠より、東を見れば、鷲津、丸根攻落されたりと見えて、黑烟立上る。濱手は、潮滿たれば、笠原の東の道を、一文字に進みて砦々の味方に使を馳せ、其兵を引具し、中島の砦に至り、我謀は今川の大軍悉く本道へ繰出し旗本小勢ならん其所へ山陰より切て掛り、忽ち勝負を決すべきと大音聲にて下知せしかば、士卒皆競ひ勇みけり。旗を絞らせ山陰より桶狹間に打向ふ。義元は駿河の先陣打勝たりと喜び酒宴して居たりしに、折しも天俄に曇り夕立篠を突くが如く風雷烈しかりければ、義元の兵掛り來る物音も聞分たず、我兵鼓躁して切入りければ、敵不意の戰に周章たる計りにて出だす所を知らず、毛利新助秀高、義元の首を取りければ、敵勢總敗軍と成りぬ。信長追擊ち首二千五百を打取り、勝鬨を作りて、其日申の刻に清洲に凱陣せり。是より信長聲名益々彰はれたり。

新字:○永禄三年五月、義元大兵を率ゐ来り攻め、丸根、鷲津を攻落し、桶狭間に陣す。信長は鳴海に打て出防戦の志あり。老臣共大敵なれば、清洲を守り給へと諫むれども、聞き入れず、酒宴して猿楽に羅生門の曲舞を舞はせし時、敵既に攻来ると告ぐ。信長少しも騷がず、人間五十年間外典の内を競ぶれば夢幻の如しと云ふ所を押返し歌ひて、忽ち螺を吹立さて物具して主従僅かに六騎、歩卒二百人計り駆出で熱田の宮に詣で、願文を神殿に納むる中に、軍兵追続き来れり。偖願文を籠め社頭より帰り、旗を進むる所に、白鷺二つ旗の先きに飛行くを、あれこそ当社大明神の擁護し給ふ験しよと言て、諸勢を勇めて進みける。源太夫の祠より、東を見れば、鷲津、丸根攻落されたりと見えて、黒烟立上る。浜手は、潮満たれば、笠原の東の道を、一文字に進みて砦々の味方に使を馳せ、其兵を引具し、中島の砦に至り、我謀は今川の大軍悉く本道へ繰出し旗本小勢ならん其所へ山陰より切て掛り、忽ち勝負を決すべきと大音声にて下知せしかば、士卒皆競ひ勇みけり。旗を絞らせ山陰より桶狭間に打向ふ。義元は駿河の先陣打勝たりと喜び酒宴して居たりしに、折しも天俄に曇り夕立篠を突くが如く風雷烈しかりければ、義元の兵掛り来る物音も聞分たず、我兵鼓躁して切入りければ、敵不意の戦に周章たる計りにて出だす所を知らず、毛利新助秀高、義元の首を取りければ、敵勢総敗軍と成りぬ。信長追撃ち首二千五百を打取り、勝鬨を作りて、其日申の刻に清洲に凱陣せり。是より信長声名益々彰はれたり。

書き下し

○永祿三年五月、義元大兵を率ゐ來り攻め、丸根、鷲津を攻落し、桶狹間に陣す。信長は鳴海に打て出防戰の志あり。老臣共大敵なれば、清洲を守り給へと諫むれども、聞き入れず、酒宴して猿樂に羅生門の曲舞を舞はせし時、敵旣に攻來ると告ぐ。信長少しも騷がず、人間五十年間外典の內を競ぶれば夢幻の如しと云ふ所を押返し歌ひて、忽ち螺を吹立さて物具して主從僅かに六騎、歩卒二百人計り驅出で熱田の宮に詣で、願文を神殿に納むる中に、軍兵追續き來れり。偖願文を籠め社頭より歸り、旗を進むる所に、白鷺二つ旗の先きに飛行くを、あれこそ當社大明神の擁護し給ふ驗しよと言て、諸勢を勇めて進みける。源太夫の祠より、東を見れば、鷲津、丸根攻落されたりと見えて、黑烟立上る。濱手は、潮滿たれば、笠原の東の道を、一文字に進みて砦々の味方に使を馳せ、其兵を引具し、中島の砦に至り、我謀は今川の大軍悉く本道へ繰出し旗本小勢ならん其所へ山陰より切て掛り、忽ち勝負を決すべきと大音聲にて下知せしかば、士卒皆競ひ勇みけり。旗を絞らせ山陰より桶狹間に打向ふ。義元は駿河の先陣打勝たりと喜び酒宴して居たりしに、折しも天俄に曇り夕立篠を突くが如く風雷烈しかりければ、義元の兵掛り來る物音も聞分たず、我兵鼓躁して切入りければ、敵不意の戰に周章たる計りにて出だす所を知らず、毛利新助秀高、義元の首を取りければ、敵勢總敗軍と成りぬ。信長追擊ち首二千五百を打取り、勝鬨を作りて、其日申の刻に清洲に凱陣せり。是より信長聲名益々彰はれたり。

現代語訳

永禄三年五月、義元が大兵を率いて来攻し、丸根、鷲津を攻め落とし、桶狭間に陣した。信長は鳴海に打って出て防戦する志があった。老臣たちは大敵であるから清洲を守ってくださいと諫めたが、聞き入れず、酒宴をして猿楽に羅生門の曲舞を舞わせていたとき、敵がすでに攻めてきたと告げる者があった。信長は少しも騒がず、人間五十年、外典の内を競べれば夢幻の如し、という所を押し返して歌い、たちまち螺を吹き立てさせ、物具を着けて、主従わずか六騎、歩卒二百人ばかりで駆け出し、熱田の宮に詣でて、願文を神殿に納めるうちに、軍兵が追い続いて来た。さて願文を籠めて社頭から帰り、旗を進めるところに、白鷺が二羽、旗の先を飛び行くのを、あれこそ当社大明神がお守りくださる験しだと言って、諸勢を励まして進んだ。源太夫の祠から東を見ると、鷲津、丸根は攻め落とされたと見えて、黒煙が立ち上っている。浜手は潮が満ちていたので、笠原の東の道を一文字に進み、砦々の味方に使いを馳せ、その兵を引き連れ、中島の砦に至り、私の謀は、今川の大軍がことごとく本道へ繰り出して旗本は小勢であろう、その所へ山陰から切って掛かり、たちまち勝負を決するというものだ、と大音声で指図したので、士卒は皆競い勇んだ。旗を絞らせ、山陰から桶狭間に打ち向かった。義元は、駿河の先陣が打ち勝ったと喜び、酒宴をしていたところ、折しも天がにわかに曇り、夕立が篠を突くように、風雷が激しかったので、義元の兵は、攻め掛かる物音も聞き分けられず、味方が鬨の声をあげて切り入ったので、敵は不意の戦に慌てるばかりで、なすべきところを知らなかった。毛利新助秀高が義元の首を取り、敵勢は総崩れとなった。信長は追い討ちして首二千五百を討ち取り、勝鬨を作って、その日の申の刻に清洲に凱旋した。これより信長の名声はますます現れた。

解説

永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いを語る有名な一節です。大軍の今川義元に対し、信長が老臣の反対を押し切り、少数で出陣し、敵の本隊を奇襲して勝った、という筋立てです。細部の経路や天候の描写には、後世の脚色も含まれると言われます。ここで学べるのは、全面対決を避け、敵の最も手薄な一点に戦力を集中させる発想です。迷わず決断し、味方の士気を高める言葉を発する指揮の速さにも、注目すべき点があります。大企業相手の競争で、どこに焦点を絞るかを考える手がかりになります。
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この章句が説くこと

桶狭間今川義元奇襲決断集中士気

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