名将言行録 / 『名将言行録』竹中重治 城を返し、敵の勢いを避ける
○織田信長、重治が稻葉山の城を襲ひ取りしと聞き、其城參らせたらんには、美濃半國を賜はろべしと申越されしに、重治我國にあらん城、他國の人に參らせて所領賜はらんこと、望む所にあらず、と言つて參らせず、一年を經て後に城をば、龍興に返し與へ、我身は江州に立退きしなり。信長も重治が美濃に在りし間は、敢て美濃を侵さゞりけり。 ○重治、信長に隨從せしかば、信長頓て餘多の侍付けて、秀吉に副へられたり。秀吉、江北橫山の城に向つて要害を構へ、對陣ありし時、淺井下野守久政、七千騎を引率し、朝妻指して發向せしを、秀吉見て兵を出さんと言ひしを、重治否々あの勢は朝妻へ行く樣に見せしかども左にはあらず、戰を持ちし敵なり、多分是へ攻掛り候べし、御勢出過ぎたり、急ぎ上の段へ引上げさせ給へ、敵假令戰を挑むとも、一人も出されず、來鋭を避け、惰氣を擊給へと申しゝかば、尤もなりとて、上の段へ引揚げ、備を固めて居たる所に、案の如く秀吉の備に向つて、眞黑に成りてぞ掛りける。重治、合戰の義は某に御任せ置かるべしと言つゝ、手勢千計りを二手に成し切所を前に當て一足も出させず、弓銃を放つべからずと固く制し置き、敵侮り來りしを、五間十間に引付け、すは打てや射よや者共と下知し、二十騎計り射倒しければ、之に辟易し進み得ず、然れども猶靜まり返て、一人も出さず、兎角せし間に、晩日に及びしかば、敵引取らんとぞ見えにける。重治手勢の者に迯ろこともあろべし、其分心得候へと言ひつゝ、馬引寄せゆらりと打乘り、左右の山々谷々へ弓銃の者を遣はし、組頭共に、宜きに計らひ打たせ申べし、敵返しなばさつと引き、彌々日を暮らし、方々より曳々聲を揚げ付慕ふべしと申付しかば、其道に得たる者共にて、峰々谷々より無け敷樣に、仕掛け送りけるに、日は彌々暮れ、道もたどゞ〱敷なりしに依り、足早やに引取らんとしける所を、重治突と閧を作り立、引付て首若干討取り、さつと引揚げたり。
新字:○織田信長、重治が稲葉山の城を襲ひ取りしと聞き、其城参らせたらんには、美濃半国を賜はろべしと申越されしに、重治我国にあらん城、他国の人に参らせて所領賜はらんこと、望む所にあらず、と言つて参らせず、一年を経て後に城をば、竜興に返し与へ、我身は江州に立退きしなり。信長も重治が美濃に在りし間は、敢て美濃を侵さゞりけり。 ○重治、信長に随従せしかば、信長頓て余多の侍付けて、秀吉に副へられたり。秀吉、江北横山の城に向つて要害を構へ、対陣ありし時、浅井下野守久政、七千騎を引率し、朝妻指して発向せしを、秀吉見て兵を出さんと言ひしを、重治否々あの勢は朝妻へ行く様に見せしかども左にはあらず、戦を持ちし敵なり、多分是へ攻掛り候べし、御勢出過ぎたり、急ぎ上の段へ引上げさせ給へ、敵仮令戦を挑むとも、一人も出されず、来鋭を避け、惰気を撃給へと申しゝかば、尤もなりとて、上の段へ引揚げ、備を固めて居たる所に、案の如く秀吉の備に向つて、真黒に成りてぞ掛りける。重治、合戦の義は某に御任せ置かるべしと言つゝ、手勢千計りを二手に成し切所を前に当て一足も出させず、弓銃を放つべからずと固く制し置き、敵侮り来りしを、五間十間に引付け、すは打てや射よや者共と下知し、二十騎計り射倒しければ、之に辟易し進み得ず、然れども猶静まり返て、一人も出さず、兎角せし間に、晩日に及びしかば、敵引取らんとぞ見えにける。重治手勢の者に迯ろこともあろべし、其分心得候へと言ひつゝ、馬引寄せゆらりと打乗り、左右の山々谷々へ弓銃の者を遣はし、組頭共に、宜きに計らひ打たせ申べし、敵返しなばさつと引き、弥々日を暮らし、方々より曳々声を揚げ付慕ふべしと申付しかば、其道に得たる者共にて、峰々谷々より無け敷様に、仕掛け送りけるに、日は弥々暮れ、道もたどゞ〱敷なりしに依り、足早やに引取らんとしける所を、重治突と閧を作り立、引付て首若干討取り、さつと引揚げたり。
書き下し
○織田信長、重治が稻葉山の城を襲ひ取りしと聞き、其城參らせたらんには、美濃半國を賜はろべしと申越されしに、重治我國にあらん城、他國の人に參らせて所領賜はらんこと、望む所にあらず、と言つて參らせず、一年を經て後に城をば、龍興に返し與へ、我身は江州に立退きしなり。信長も重治が美濃に在りし間は、敢て美濃を侵さゞりけり。 ○重治、信長に隨從せしかば、信長頓て餘多の侍付けて、秀吉に副へられたり。秀吉、江北橫山の城に向つて要害を構へ、對陣ありし時、淺井下野守久政、七千騎を引率し、朝妻指して發向せしを、秀吉見て兵を出さんと言ひしを、重治否々あの勢は朝妻へ行く樣に見せしかども左にはあらず、戰を持ちし敵なり、多分是へ攻掛り候べし、御勢出過ぎたり、急ぎ上の段へ引上げさせ給へ、敵假令戰を挑むとも、一人も出されず、來鋭を避け、惰氣を擊給へと申しゝかば、尤もなりとて、上の段へ引揚げ、備を固めて居たる所に、案の如く秀吉の備に向つて、眞黑に成りてぞ掛りける。重治、合戰の義は某に御任せ置かるべしと言つゝ、手勢千計りを二手に成し切所を前に當て一足も出させず、弓銃を放つべからずと固く制し置き、敵侮り來りしを、五間十間に引付け、すは打てや射よや者共と下知し、二十騎計り射倒しければ、之に辟易し進み得ず、然れども猶靜まり返て、一人も出さず、兎角せし間に、晩日に及びしかば、敵引取らんとぞ見えにける。重治手勢の者に迯ろこともあろべし、其分心得候へと言ひつゝ、馬引寄せゆらりと打乘り、左右の山々谷々へ弓銃の者を遣はし、組頭共に、宜きに計らひ打たせ申べし、敵返しなばさつと引き、彌々日を暮らし、方々より曳々聲を揚げ付慕ふべしと申付しかば、其道に得たる者共にて、峰々谷々より無け敷樣に、仕掛け送りけるに、日は彌々暮れ、道もたどゞ〱敷なりしに依り、足早やに引取らんとしける所を、重治突と閧を作り立、引付て首若干討取り、さつと引揚げたり。
現代語訳
織田信長は、重治が稲葉山の城を襲い取ったと聞いて、その城を差し出すなら美濃半国を与えよう、と言ってきたが、重治は、わが国にある城を他国の人に差し出して領地を賜ることは、望むところではない、と言って差し出さず、一年を経たのち、城は龍興に返し与え、わが身は近江に立ち退いた。信長も重治が美濃にいる間は、あえて美濃を侵さなかった。 重治が信長に従ったので、信長はやがて多くの侍を付けて秀吉に添えた。秀吉が江北の横山の城に向かって要害を構え、対陣したとき、浅井下野守久政が七千騎を率いて朝妻を指して出発したのを、秀吉は見て、兵を出そうと言ったが、重治は、いやいや、あの勢いは朝妻へ行くように見せかけているが、そうではなく、戦を待っていた敵です。おそらくこちらへ攻めかかるでしょう。お勢が出過ぎています。急いで上の段へお引きください。敵がたとえ戦を挑んでも、一人も出さず、鋭い気を避け、怠った気を打たれませ、と申し上げたので、もっともだとして、上の段へ引き上げ、備えを固めていたところ、案のとおり秀吉の備えに向かって、真っ黒になって襲いかかった。重治は、合戦のことは私にお任せください、と言って、手勢千ばかりを二手に分け、険しい所を前にして一足も出させず、弓や鉄砲を放ってはならないと固く制止し、敵が侮って来るのを、五間、十間まで引きつけ、それ撃て射よ者ども、と下知し、二十騎ばかり射倒したので、これに怯んで進めなかった。それでも静まり返って、一人も出さずにいるうちに、夕方になり、敵は引き取ろうとするように見えた。重治は、手勢の者に、逃げることもあろう、その覚悟でいよ、と言いながら、馬を引き寄せゆらりと乗り、左右の山や谷に弓銃の者を遣わし、組頭たちに、よいように計らって撃たせよ、敵が引き返したらさっと引け、いよいよ日を暮らし、方々から、えいえいと声をあげて付き慕えと命じたので、その道に長けた者たちで、峰々谷々から、そこかしこに追い立てて送ったところ、日はいよいよ暮れ、道もたどたどしくなったので、足早に引き取ろうとしたところを、重治はどっと鬨をつくり、引き付けて首をいくらか討ち取り、さっと引き揚げた。
解説

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