名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 学問から武道へ、そして病没
○氏鄕、儒佛兩道は、南化和尚に學び、和歌は三條西家及び宗養紹巴に學ばれけり。茶事は人の師とも仰がれたり。後、齋藤內藏助利三が諫めに依り、武士の遊藝は入らざること丶思ひ、是より專ら武道を研究し、軍功重なりしかば、竟に奧州の鎭壓とは成てけり。 ○九戶役の後、石田三成、都に歸り、密に秀吉に申樣、此度氏鄕が軍容を視侍るに、尋常の人には候はず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然ろに一人も軍法を犯す者候はず、此人殿下の御爲めに二心を懷かざらんには、斯る御固又餘にもあるべからず、心得させ給ひて然るべき人なりと申しゝかば、密に毒を與へられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。 氏鄕辟世に、『限りあれば、吹かねど花は、散るものを、心短き、春の山風』と詠めり。蓋し此意を寓せしこととぞ。 ○
新字:○氏郷、儒仏両道は、南化和尚に学び、和歌は三条西家及び宗養紹巴に学ばれけり。茶事は人の師とも仰がれたり。後、斎藤内蔵助利三が諫めに依り、武士の遊芸は入らざること丶思ひ、是より専ら武道を研究し、軍功重なりしかば、竟に奥州の鎮圧とは成てけり。 ○九戸役の後、石田三成、都に帰り、密に秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候はず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然ろに一人も軍法を犯す者候はず、此人殿下の御為めに二心を懐かざらんには、斯る御固又余にもあるべからず、心得させ給ひて然るべき人なりと申しゝかば、密に毒を与へられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。 氏郷辟世に、『限りあれば、吹かねど花は、散るものを、心短き、春の山風』と詠めり。蓋し此意を寓せしこととぞ。 ○
書き下し
○氏鄕、儒佛兩道は、南化和尚に學び、和歌は三條西家及び宗養紹巴に學ばれけり。茶事は人の師とも仰がれたり。後、齋藤內藏助利三が諫めに依り、武士の遊藝は入らざること丶思ひ、是より專ら武道を研究し、軍功重なりしかば、竟に奧州の鎭壓とは成てけり。 ○九戶役の後、石田三成、都に歸り、密に秀吉に申樣、此度氏鄕が軍容を視侍るに、尋常の人には候はず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然ろに一人も軍法を犯す者候はず、此人殿下の御爲めに二心を懷かざらんには、斯る御固又餘にもあるべからず、心得させ給ひて然るべき人なりと申しゝかば、密に毒を與へられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。 氏鄕辟世に、『限りあれば、吹かねど花は、散るものを、心短き、春の山風』と詠めり。蓋し此意を寓せしこととぞ。 ○
現代語訳
氏郷は、儒教と仏教の二道は南化和尚に学び、和歌は三条西家および宗養、紹巴に学んだ。茶事は人の師とも仰がれた。のち、斎藤内蔵助利三の諫めによって、武士の遊芸は不要だと思い、これより専ら武道を研究し、軍功が重なって、ついに奥州の鎮めとなった。 九戸の役のあと、石田三成が都に帰り、ひそかに秀吉に申し上げた。このたび氏郷の軍容を見ましたところ、尋常の人ではありません。その軍の行進は七日ほども引き切らず、しかも一人も軍法を犯す者がありません。この人が殿下のために二心を抱かなければ、これほど固い守りはまたとないでしょう。心得て置かれるべき人です。そこで、ひそかに毒を与えたという。これによってたちまち病に犯されて、ついに亡くなった。 氏郷の辞世に、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」とある。思うに、この意を寓したものであるという。 ○
解説

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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 家風の偏りと和歌○氏鄕曰く、今何の某の家風は和にして恩を貴ぶ、其士多く柔弱なり、義に感じ禮を知る者餘りありて、勇猛の士寡し、又何の某の家風は凜々と締り、武道の心掛け能く、手强き士多くして、義に感じ禮を知る者寡し、兩家互に失あり、譬へば、春夏は萬物盛長の時なれども、病に感ずる者多く、物腐り易く虫蛆を生ずるが如し、是れ恩を貴ぶの失なり。又秋冬は木葉衰枯する時なれども、物の成熟すること多し、其家風の縮りたるに似たり。春夏秋冬一偏に傾かざる樣に家風を正すを、主將の器と言ふべしと。 ○氏鄕、平生武職を守り、聊も怠らず。日夜家臣を集めて武道を琢磨し、明日の合戰に、其言に違はず働くことを專一とせい、家に財を蓄ろことなく、智士勇者を諸方より招て財祿を與へ、死を與に爲さんことを欲する故、天下の名士多く歸屬せり。之に依り秀吉、奧州の鎭壓とはせられけり。凡そ祿百餘萬石に充れども、臺所間々失食のことありて、家臣の徒より交々之を養ひしことありしとぞ。 ○氏鄕曰く、『雲は皆、拂ひ果てたる、秋風を、松に殘して、月をこそ見れ』。又『月澄みて、雲皆空に、消果てゝ、深山隱くれを、行く嵐哉』。此二首の和歌は軍法の心得に、大將たる者味ふべきなりと。 ○氏鄕、夜話には怪談を好めり。又武邊の話になりては、退屈せぬものなりとて、蠟燭二挺を限りに、夜話の者退出す、夏の夜は蠟燭を短く剪て風所に燈し置かれけり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 評・逸話は人物の計器秀吉に毒殺されたなど云ふことは、嘘である。恐らく、(限あれば)の歌があるために、生じたデマである。しかし、信長取り立ての大名だし、大志雄略があるのだから秀吉に多少烟たがられたことは、たしかである。個人的武勇に秀れ、いつも陣頭に立つて奮戰したと云ふ點では、黑田長政などと同じである。しかし、才幹と云ひ、大志と云ひ、また文事と云ひ、長政などよりは、はるかに秀れてゐる。舊主の子孫に對して、その刀を持つて陪從したと云ふのも、優にやさしき振舞だ。わづか、四十で死んだのは、いかにも惜しい。もつと生きてゐたならば、關ケ原の役などでは、天下の形勢にも影響のある一大勢力であつたゞらう。 家臣西村と角力を取る話は、可なり知られてゐる美談であるが、(十萬石吳れたら一人子を捨てろ)と云ふ言葉を聽いて、急に不興になる點など、氏鄕などの爲人を示して甚だ面白い。 その人の美談、逸話は、その人物を示す、計器そのものである。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 少年期に見込まれる右兵衞太夫賢秀の子。飛驒守に任す。後從三位に叙し、參議に任す。會津百二十萬石に封ぜられ、黒川城に住す。文祿四年二月七日薨、年四十。 ○永祿十一年九月、氏郷、父賢秀と共に信長に降る、時に年十三、鶴千代丸と曰ふ。信長之を見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ、天晴なる若者哉、信長が娘に合はせんとて、岐阜城に止め、彈正忠の一字を賜はり、名を忠三郎と賜ふ。 ○信長の前にて、毎度武邊の談論あり、氏郷年十三、常に座に在り、深更に及ぶと雖も、終に倦怠することなく、一心不亂に語る者の口本を守り居たり。稻葉貞通之を見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者は有間敷と言はれけり。 ○十二年八月、信長、大河内の城に發向す。氏郷年十四、只一人拔掛し、多勢の中に戰ひ、能き首取て歸る。信長大に感じ、自ら打鮑取て賜はりけり。是より大小の戰功、數ふるに違あらず。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 黒塚の歌と朝鮮の望み○陸奧安達郡に川あり。向ふに黑塚あり、安達は氏鄕の領地なりしに、黑塚は政宗の領地なりとて、爭論ありしに、氏鄕聞て、平隸盛の歌に、『陸奧の安達ヶ原の、黑塚に、鬼籠れりと、曰ふは眞とか』と讀めろことあり、如何にと言はれしに、聞く人、黑塚は安達ヶ原に屬したること分明なりとて、政宗爭を止められけり。 ○秀吉、名護屋に在り、征韓の事に歲月を重ぬるを憂ひ、諸將を會し、詮議ありし時に、氏鄕何の事も御座なく候、朝鮮を某に下し賜はらんには、切取りに仕るべく、左候へば上の御苦勞も止み申間、某次第に仰付られかしと申す。秀吉、是より氏鄕を忌みしとぞ。 ○筒井順慶の臣に、松倉權助と曰ふ者あり。臆病者と沙汰せらる丶故、筒井が家を去りて、蒲生が家に來り、臆病者も良將の下に用ひらろ丶道あらば御扶持を蒙らばやと請ふ。氏鄕見る所ありとて、卽ち呼出さる。程なく戰ありければ、松倉鎗を合はせて首を得たり。氏鄕見ろに違はずとて、祿二千石を與へ、物頭とせり。其後戰ありし時、松倉拔出たる働敵味方の目を驚かし、深入して討死す。氏鄕近習の者に、松倉は剛果にして大志あり、人の下風に立つ者にあらず、故に早く取立しが、今少し出世を延ばし置かば無理なる討死は致す間敷を、我が過に依てあたら武士を失ひたり、と言て落涙して、悔られけり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 情と知行、旧主への礼○氏鄕、伊藤平五郞に與ふる書略に曰く、第一家中に情を深くし、知行賜はるべし、知行計にて情なくば、事ならず、情計りにても知行なくては、又徒らごとなり、知行と情とは車の兩輪、鳥の兩翼なり、家中の摺切を痛み給はるべし、商賈抔こそ利を專にすべけれども、利は毛頭心に掛られ間敷、當年の物成、來年六七月までに遣ひ拂へば、一萬石は其秋又一萬石出來て絶ざろものなり、只武勇のある者を多く抱え、武の譽れだにあれば、身を立ろことは疑ひなきことなりと、申送られけり。 (すりきれ)は窮乏、物成は收穫と云ふことだ。 ○蒲生の家に、佐々木の鐙と云へる名高き鐙ありけるを、細川忠興所望せり。亙理八右衞門、是は無雙の名物なれば、又他にあるべからず、別の似寄りたる鐙を遣はされよと申しゝかば、氏鄕『なきなぞと、人には言ひて、やみなまし、心の問はゞ何にと答へん』。と云へる歌の心の恥しさよとて、彼鐙を贈られけり。其後、忠興戾せしかども氏鄕受けず。氏鄕死去の後、子秀行に返せしとぞ。 ○蒲生家は、元來近江佐々木の臣なりしが、佐々木亡びしかば、氏鄕は信長、秀吉に仕へ後會津百二十萬石を領せり。或時伏見にて秀吉に謁せし時、舊主人佐々木義賢の子、四郞とて、二百石を領し、秀吉の伽者と成り居れり。氏鄕之を見、愍然として其舊を思ひ、四郞の爲めに刀を持して陪從せり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 評・人物と政宗との対抗人物から云つて、戰國時代六、七位には位する人である。天正十八年に、旣に會津百二十萬石に封ぜられてゐるのであるから、當時旣に家康、利家、政宗などと肩を比べてゐたことが分るのである。 葛西、大崎に一揆の起きたときの、氏鄕と政宗との對抗は、相當深刻であり、曾て幸田露伴氏も、「蒲生氏鄕」なる題で、書かれたことがある。政宗は、一揆と通謀して、秀吉に反抗しようと云ふのではない。一揆を操つて奧州の治安をかき擾し、之を討伐に向つた氏鄕を失策らせ、秀吉をして(奧州は結局政宗でなければ、駄目だ。いつそ、政宗に委せよう)と、思はせようと云ふ肚である。だから、氏鄕の立場は、むつかしかつたのである。もつとも、政宗もさうした策謀のために、秀吉から相當いぢめられたことは、政宗の項にある通である。