名将言行録 / 『名将言行録』伊達政宗 評・政宗の三厄
最後のお茶入の頂は、政宗の幕府に對するお世辭であらう。この頂を除いて、葛西大崎の一揆事件を加ふるべきで、これが政宗の三厄である。
新字:最後のお茶入の頂は、政宗の幕府に対するお世辞であらう。この頂を除いて、葛西大崎の一揆事件を加ふるべきで、これが政宗の三厄である。
書き下し
最後のお茶入の頂は、政宗の幕府に對するお世辭であらう。この頂を除いて、葛西大崎の一揆事件を加ふるべきで、これが政宗の三厄である。
現代語訳
最後のお茶入れの話は、政宗の幕府に対するお世辞であろう。この話を除いて、葛西・大崎の一揆事件を加えるべきで、これが政宗の三厄である。
解説
政宗の三つの大事の場についての菊池寛の評です。最後の家光との茶入れの話は、幕府に対するお世辞だと見立て、それを除いて葛西・大崎の一揆事件を加えるべきだと述べます。菊池寛は評で、政宗の回想をそのまま受けず、語り手の立場を疑って読み直しています。一人称の成功談には、聞き手への配慮が混じりやすい、という読み方の手がかりになります。現代でも、上司や先輩の武勇伝は、場の空気や相手に合わせて語りが調整されていることがあります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
菊池寛の評三厄葛西大崎一揆お世辞回想読み方
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