名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 約束した名馬と先陣
○織田金左衞門尉隱れなき名馬を持てり。諸人之を所望するに、金左衞門聞て、此馬を進ずべし、但し御陣のある時に、一番に敵陣へ乘込みて、高名せんと存ぜられば進ずべしと云ふ。之に依て誰も重ねて所望する人なし。氏郷、時に年十六、之を聞き直ぐに金左衞門が許に行き向ひ、重ねての御陣に、先陣を掛け一番に高名慥に致すべき旨堅く約束し、此馬を乞得たり。十日計り過ぎて、武田晴信、東美濃に出張して、燒働ありしに、氏郷、彼馬に打乘り先陣に進み、武田方より斥候に出たる敵と出合ひ、引組で落ち、頸を取て高名し、信長の前に出たり。金左衞門にも高名の頸を見せ、約束を違へざる旨を語りしかば、信長を始め、人皆感じあへり。 ○氏郷十七八歳の頃、信長に申けるは、又者に罷成ることに候へ共、柴田勝家に御附下され候へかし、天下の先手にて候間、武士の體見習申度と望みければ、信長尤もなりと言はれて、柴田に附られたり。
新字:○織田金左衛門尉隠れなき名馬を持てり。諸人之を所望するに、金左衛門聞て、此馬を進ずべし、但し御陣のある時に、一番に敵陣へ乗込みて、高名せんと存ぜられば進ずべしと云ふ。之に依て誰も重ねて所望する人なし。氏郷、時に年十六、之を聞き直ぐに金左衛門が許に行き向ひ、重ねての御陣に、先陣を掛け一番に高名慥に致すべき旨堅く約束し、此馬を乞得たり。十日計り過ぎて、武田晴信、東美濃に出張して、焼働ありしに、氏郷、彼馬に打乗り先陣に進み、武田方より斥候に出たる敵と出合ひ、引組で落ち、頸を取て高名し、信長の前に出たり。金左衛門にも高名の頸を見せ、約束を違へざる旨を語りしかば、信長を始め、人皆感じあへり。 ○氏郷十七八歳の頃、信長に申けるは、又者に罷成ることに候へ共、柴田勝家に御附下され候へかし、天下の先手にて候間、武士の体見習申度と望みければ、信長尤もなりと言はれて、柴田に附られたり。
書き下し
○織田金左衞門尉隱れなき名馬を持てり。諸人之を所望するに、金左衞門聞て、此馬を進ずべし、但し御陣のある時に、一番に敵陣へ乘込みて、高名せんと存ぜられば進ずべしと云ふ。之に依て誰も重ねて所望する人なし。氏郷、時に年十六、之を聞き直ぐに金左衞門が許に行き向ひ、重ねての御陣に、先陣を掛け一番に高名慥に致すべき旨堅く約束し、此馬を乞得たり。十日計り過ぎて、武田晴信、東美濃に出張して、燒働ありしに、氏郷、彼馬に打乘り先陣に進み、武田方より斥候に出たる敵と出合ひ、引組で落ち、頸を取て高名し、信長の前に出たり。金左衞門にも高名の頸を見せ、約束を違へざる旨を語りしかば、信長を始め、人皆感じあへり。 ○氏郷十七八歳の頃、信長に申けるは、又者に罷成ることに候へ共、柴田勝家に御附下され候へかし、天下の先手にて候間、武士の體見習申度と望みければ、信長尤もなりと言はれて、柴田に附られたり。
現代語訳
織田金左衛門尉は、隠れもない名馬を持っていた。人々がこれを所望すると、金左衛門は、この馬を差し上げよう、ただし御陣のときに、一番に敵陣へ乗り込んで高名しようとお思いなら差し上げる、と言った。このため、誰も重ねて所望する人はいなかった。氏郷は、そのとき年十六、これを聞いてすぐ金左衛門のもとに行き、次の御陣で先陣を駆け、必ず一番の高名を立てると固く約束して、この馬をもらい受けた。十日ばかり過ぎて、武田晴信が東美濃に出陣して焼き働きをしたとき、氏郷はあの馬に乗って先陣に進み、武田方から偵察に出た敵と出会い、組み合って落馬しながらも首を取って高名し、信長の前に出た。金左衛門にも高名の首を見せ、約束を違えなかったことを語ったので、信長をはじめ人々は皆感心した。 氏郷が十七、八歳のころ、信長に申し上げた。又者の身で恐れ多いことですが、柴田勝家にお付けください、天下の先手ですから、武士の体を見習いたいのです、と望んだ。信長はもっともだと言って、柴田に付けた。
解説

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