名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 弁舌の智者を遠ざける
○佐久間久右衞門安次、氏鄕に初めて謁せし時、疊の緣に蹶き倒れしを、伺候の小姓等、互に目くばせして笑へり。氏鄕怒り、小姓共を呼び、汝等は未だ物の分を知らざる故に、自身の奉公を以て、彼を校量するなり、彼は疊の上の奉公人にあらず、使ふ所又違へり、汝等は疊の上の奉公を第一とす、是を以て彼を計らば、大に相違すべしと叱られけり。 ○玉川左右馬、辨才學智ありとて、世に稱せらろ。或人之を氏鄕に譽む。氏鄕大に喜び之を迎へ賓禮を以て之を遇す。左右馬、氏鄕に謁し種々物語りぬ。氏鄕、十日程續けて夜話に迎へしが、其後故なく金を與へて送り返せり。譽めし者大に望を失へり。其後夜話の時、老臣、玉川ことは才智ある者に候へば、往々御登庸ありて、謀臣にもせらるべきかと存せし所に、案の外御暇を賜はりぬ。何ぞ御思慮ありてのことにや、斯ることば毎々御聞かせありけれども、玉川ことに付ては御一言もなき條、甚だ以て不審く存候と申す。氏鄕、汝等不審に思ふこと尤もなり、夫れ世の智者と稱する所は、見分を重厚に構へ、言語を巧みにし、器量學才ありて、人の目を誑す者に過ぎず、當世は文字に暗き時なれば、人の見樣を知らず、之を智者と思へり。眞の智者は斯の如きものにあらず、我玉川を觀るに、今世に所謂智者なり、何にとなれば、初め我に逢ふ時、大に我を稱し、次に大に諸將を誹り、我機嫌に入らんことを多く設けり、又己が美を稱揚せられんことを欲し、交友の善事を算て之を言へり。斯の如き者は智者と曰ふとも、遠ざくべきものなり、之に依り暇を遣はせしと言はれけり。後玉川、或家に仕へしが才智ある者なれば、一旦は家中の者も名士を得たりと喜びしかど、年月を經るに從ひ老臣を退け、忠直の者を妬み、己が威を振ひければ、家中何れも疎み果て、終に其主家も衰へ、主人も過を悔いて、玉川を追出せり、其時に至り、氏鄕の明察神の如しとて、何れも歎服せり。
新字:○佐久間久右衛門安次、氏郷に初めて謁せし時、畳の縁に蹶き倒れしを、伺候の小姓等、互に目くばせして笑へり。氏郷怒り、小姓共を呼び、汝等は未だ物の分を知らざる故に、自身の奉公を以て、彼を校量するなり、彼は畳の上の奉公人にあらず、使ふ所又違へり、汝等は畳の上の奉公を第一とす、是を以て彼を計らば、大に相違すべしと叱られけり。 ○玉川左右馬、弁才学智ありとて、世に称せらろ。或人之を氏郷に誉む。氏郷大に喜び之を迎へ賓礼を以て之を遇す。左右馬、氏郷に謁し種々物語りぬ。氏郷、十日程続けて夜話に迎へしが、其後故なく金を与へて送り返せり。誉めし者大に望を失へり。其後夜話の時、老臣、玉川ことは才智ある者に候へば、往々御登庸ありて、謀臣にもせらるべきかと存せし所に、案の外御暇を賜はりぬ。何ぞ御思慮ありてのことにや、斯ることば毎々御聞かせありけれども、玉川ことに付ては御一言もなき条、甚だ以て不審く存候と申す。氏郷、汝等不審に思ふこと尤もなり、夫れ世の智者と称する所は、見分を重厚に構へ、言語を巧みにし、器量学才ありて、人の目を誑す者に過ぎず、当世は文字に暗き時なれば、人の見様を知らず、之を智者と思へり。真の智者は斯の如きものにあらず、我玉川を観るに、今世に所謂智者なり、何にとなれば、初め我に逢ふ時、大に我を称し、次に大に諸将を誹り、我機嫌に入らんことを多く設けり、又己が美を称揚せられんことを欲し、交友の善事を算て之を言へり。斯の如き者は智者と曰ふとも、遠ざくべきものなり、之に依り暇を遣はせしと言はれけり。後玉川、或家に仕へしが才智ある者なれば、一旦は家中の者も名士を得たりと喜びしかど、年月を経るに従ひ老臣を退け、忠直の者を妬み、己が威を振ひければ、家中何れも疎み果て、終に其主家も衰へ、主人も過を悔いて、玉川を追出せり、其時に至り、氏郷の明察神の如しとて、何れも嘆服せり。
書き下し
○佐久間久右衞門安次、氏鄕に初めて謁せし時、疊の緣に蹶き倒れしを、伺候の小姓等、互に目くばせして笑へり。氏鄕怒り、小姓共を呼び、汝等は未だ物の分を知らざる故に、自身の奉公を以て、彼を校量するなり、彼は疊の上の奉公人にあらず、使ふ所又違へり、汝等は疊の上の奉公を第一とす、是を以て彼を計らば、大に相違すべしと叱られけり。 ○玉川左右馬、辨才學智ありとて、世に稱せらろ。或人之を氏鄕に譽む。氏鄕大に喜び之を迎へ賓禮を以て之を遇す。左右馬、氏鄕に謁し種々物語りぬ。氏鄕、十日程續けて夜話に迎へしが、其後故なく金を與へて送り返せり。譽めし者大に望を失へり。其後夜話の時、老臣、玉川ことは才智ある者に候へば、往々御登庸ありて、謀臣にもせらるべきかと存せし所に、案の外御暇を賜はりぬ。何ぞ御思慮ありてのことにや、斯ることば毎々御聞かせありけれども、玉川ことに付ては御一言もなき條、甚だ以て不審く存候と申す。氏鄕、汝等不審に思ふこと尤もなり、夫れ世の智者と稱する所は、見分を重厚に構へ、言語を巧みにし、器量學才ありて、人の目を誑す者に過ぎず、當世は文字に暗き時なれば、人の見樣を知らず、之を智者と思へり。眞の智者は斯の如きものにあらず、我玉川を觀るに、今世に所謂智者なり、何にとなれば、初め我に逢ふ時、大に我を稱し、次に大に諸將を誹り、我機嫌に入らんことを多く設けり、又己が美を稱揚せられんことを欲し、交友の善事を算て之を言へり。斯の如き者は智者と曰ふとも、遠ざくべきものなり、之に依り暇を遣はせしと言はれけり。後玉川、或家に仕へしが才智ある者なれば、一旦は家中の者も名士を得たりと喜びしかど、年月を經るに從ひ老臣を退け、忠直の者を妬み、己が威を振ひければ、家中何れも疎み果て、終に其主家も衰へ、主人も過を悔いて、玉川を追出せり、其時に至り、氏鄕の明察神の如しとて、何れも歎服せり。
現代語訳
佐久間久右衛門安次が、初めて氏郷に拝謁したとき、畳の縁につまずいて倒れたので、控えていた小姓たちは互いに目くばせして笑った。氏郷は怒り、小姓たちを呼んで、お前たちはまだ物の分をわきまえないから、自分の奉公を物差しにして彼を量るのだ。彼は畳の上の奉公人ではなく、使う場所もまた違う。お前たちは畳の上の奉公を第一とするが、これで彼を量れば、大いに誤る、と叱った。 玉川左右馬は、弁才と学識があるとして、世に称えられていた。ある人がこれを氏郷に褒めた。氏郷は大いに喜んで迎え、賓客の礼で遇した。左右馬は氏郷に拝謁して、さまざま語った。氏郷は十日ほど続けて夜話に迎えたが、その後、理由なく金を与えて送り返した。褒めた者は大いに当てがはずれた。その後、夜話のとき、老臣が、玉川は才智のある者ですから、いずれ登用して謀臣にもなさるかと思っていたところ、案に相違してお暇を賜りました。何かお考えがあってのことでしょうか。このようなことは毎度お聞かせくださいますが、玉川のことでは一言もないので、まことに不審に存じます、と言った。氏郷は、お前たちの不審はもっともだ。世に智者と称される者は、見かけを重々しく構え、言葉を巧みにして、器量学才があるように人の目をくらます者にすぎない。今の世は文字に暗い時代なので、人の見方を知らず、これを智者と思っている。真の智者はそのようなものではない。私が玉川を見ると、今世のいわゆる智者である。なぜかというと、初め私に会うとき大いに私を称え、次に大いに諸将をそしり、私の機嫌に入ることを多くはかった。また自分の美点を称えられたがり、友人の善事を数えて口にした。このような者は智者といっても遠ざけるべきである。それゆえ暇を与えたのだ、と言った。のち玉川はある家に仕えたが、才智のある者なので、一旦は家中の者も名士を得たと喜んだものの、年月を経るにつれて老臣を退け、忠直の者を妬み、自分の威を振るったので、家中は皆疎み果て、ついにその主家も衰え、主人も過ちを悔いて玉川を追い出した。その時になって、氏郷の明察は神のようだと、皆が感服した。
解説

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