名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 殿を務めると賭けの話
○長湫の役、秀吉軍を撤し、大垣に入らんとせし時、清洲より追蹤することを慮り、氏郷に後拂を命ず。氏郷承はり、御心易く思召れ候へ、敵出なば、一捲りに追返し申べし、御心易く退き給へと申ければ、秀吉大に感稱せり。其後氏郷後拂の時、敵は出でざりしかど、殿の御大事と思召すことを、氏郷に仰付られしこと面目の至り、之に過ぎずと語りしぞ。 ○此役の時、本多三彌正重、氏郷に從て信雄方の城を巡視して歸り、某の郭に湟塹ありて攻入ること難しと言ふ。氏郷曰く、百聞不如一見。と古諺にあれども、此地脉湟塹あるべからず、汝と之を賭にせん、汝勝たずば吾に佳魚一尾を與へよ、吾勝たずば、汝が望む所を授くべしと、大に戲る。城陷て後之を見るに、果して氏郷の察するに違はず、正重鮮魚を以て之を償ひしと云ふ。
新字:○長湫の役、秀吉軍を撤し、大垣に入らんとせし時、清洲より追蹤することを慮り、氏郷に後払を命ず。氏郷承はり、御心易く思召れ候へ、敵出なば、一捲りに追返し申べし、御心易く退き給へと申ければ、秀吉大に感称せり。其後氏郷後払の時、敵は出でざりしかど、殿の御大事と思召すことを、氏郷に仰付られしこと面目の至り、之に過ぎずと語りしぞ。 ○此役の時、本多三弥正重、氏郷に従て信雄方の城を巡視して帰り、某の郭に湟塹ありて攻入ること難しと言ふ。氏郷曰く、百聞不如一見。と古諺にあれども、此地脉湟塹あるべからず、汝と之を賭にせん、汝勝たずば吾に佳魚一尾を与へよ、吾勝たずば、汝が望む所を授くべしと、大に戯る。城陥て後之を見るに、果して氏郷の察するに違はず、正重鮮魚を以て之を償ひしと云ふ。
書き下し
○長湫の役、秀吉軍を撤し、大垣に入らんとせし時、清洲より追蹤することを慮り、氏郷に後拂を命ず。氏郷承はり、御心易く思召れ候へ、敵出なば、一捲りに追返し申べし、御心易く退き給へと申ければ、秀吉大に感稱せり。其後氏郷後拂の時、敵は出でざりしかど、殿の御大事と思召すことを、氏郷に仰付られしこと面目の至り、之に過ぎずと語りしぞ。 ○此役の時、本多三彌正重、氏郷に從て信雄方の城を巡視して歸り、某の郭に湟塹ありて攻入ること難しと言ふ。氏郷曰く、百聞不如一見。と古諺にあれども、此地脉湟塹あるべからず、汝と之を賭にせん、汝勝たずば吾に佳魚一尾を與へよ、吾勝たずば、汝が望む所を授くべしと、大に戲る。城陷て後之を見るに、果して氏郷の察するに違はず、正重鮮魚を以て之を償ひしと云ふ。
現代語訳
長湫の役で、秀吉は軍を引き払い大垣に入ろうとしたとき、清洲から追われることを心配して、氏郷に殿軍を命じた。氏郷はお受けして、ご安心なさいませ、敵が出てきたなら、一息に追い返してみせます、安心してお引きください、と申し上げたので、秀吉は大いに褒めた。その後、氏郷は、殿軍のとき、敵は出てこなかったが、殿のご大事と思し召すことを氏郷に仰せつけられたのは、面目このうえないことだ、と語った。 この戦のとき、本多三弥正重が氏郷に従って信雄方の城を巡視して帰り、ある郭には堀があって攻め入るのが難しい、と言った。氏郷は言った。百聞は一見にしかず、という古い諺があるが、この地形には堀があるはずがない。お前とこれを賭けよう。お前が勝たなければ私に上等の魚を一尾よこせ。私が勝たなければ、お前の望むものを授けよう、と大いに戯れた。城が落ちたあとに見ると、はたして氏郷の見立てに違わなかったので、正重は鮮魚でこれを償ったという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 約束した名馬と先陣○織田金左衞門尉隱れなき名馬を持てり。諸人之を所望するに、金左衞門聞て、此馬を進ずべし、但し御陣のある時に、一番に敵陣へ乘込みて、高名せんと存ぜられば進ずべしと云ふ。之に依て誰も重ねて所望する人なし。氏郷、時に年十六、之を聞き直ぐに金左衞門が許に行き向ひ、重ねての御陣に、先陣を掛け一番に高名慥に致すべき旨堅く約束し、此馬を乞得たり。十日計り過ぎて、武田晴信、東美濃に出張して、燒働ありしに、氏郷、彼馬に打乘り先陣に進み、武田方より斥候に出たる敵と出合ひ、引組で落ち、頸を取て高名し、信長の前に出たり。金左衞門にも高名の頸を見せ、約束を違へざる旨を語りしかば、信長を始め、人皆感じあへり。 ○氏郷十七八歳の頃、信長に申けるは、又者に罷成ることに候へ共、柴田勝家に御附下され候へかし、天下の先手にて候間、武士の體見習申度と望みければ、信長尤もなりと言はれて、柴田に附られたり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 弁舌の智者を遠ざける○佐久間久右衞門安次、氏鄕に初めて謁せし時、疊の緣に蹶き倒れしを、伺候の小姓等、互に目くばせして笑へり。氏鄕怒り、小姓共を呼び、汝等は未だ物の分を知らざる故に、自身の奉公を以て、彼を校量するなり、彼は疊の上の奉公人にあらず、使ふ所又違へり、汝等は疊の上の奉公を第一とす、是を以て彼を計らば、大に相違すべしと叱られけり。 ○玉川左右馬、辨才學智ありとて、世に稱せらろ。或人之を氏鄕に譽む。氏鄕大に喜び之を迎へ賓禮を以て之を遇す。左右馬、氏鄕に謁し種々物語りぬ。氏鄕、十日程續けて夜話に迎へしが、其後故なく金を與へて送り返せり。譽めし者大に望を失へり。其後夜話の時、老臣、玉川ことは才智ある者に候へば、往々御登庸ありて、謀臣にもせらるべきかと存せし所に、案の外御暇を賜はりぬ。何ぞ御思慮ありてのことにや、斯ることば毎々御聞かせありけれども、玉川ことに付ては御一言もなき條、甚だ以て不審く存候と申す。氏鄕、汝等不審に思ふこと尤もなり、夫れ世の智者と稱する所は、見分を重厚に構へ、言語を巧みにし、器量學才ありて、人の目を誑す者に過ぎず、當世は文字に暗き時なれば、人の見樣を知らず、之を智者と思へり。眞の智者は斯の如きものにあらず、我玉川を觀るに、今世に所謂智者なり、何にとなれば、初め我に逢ふ時、大に我を稱し、次に大に諸將を誹り、我機嫌に入らんことを多く設けり、又己が美を稱揚せられんことを欲し、交友の善事を算て之を言へり。斯の如き者は智者と曰ふとも、遠ざくべきものなり、之に依り暇を遣はせしと言はれけり。後玉川、或家に仕へしが才智ある者なれば、一旦は家中の者も名士を得たりと喜びしかど、年月を經るに從ひ老臣を退け、忠直の者を妬み、己が威を振ひければ、家中何れも疎み果て、終に其主家も衰へ、主人も過を悔いて、玉川を追出せり、其時に至り、氏鄕の明察神の如しとて、何れも歎服せり。
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名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 家風の偏りと和歌○氏鄕曰く、今何の某の家風は和にして恩を貴ぶ、其士多く柔弱なり、義に感じ禮を知る者餘りありて、勇猛の士寡し、又何の某の家風は凜々と締り、武道の心掛け能く、手强き士多くして、義に感じ禮を知る者寡し、兩家互に失あり、譬へば、春夏は萬物盛長の時なれども、病に感ずる者多く、物腐り易く虫蛆を生ずるが如し、是れ恩を貴ぶの失なり。又秋冬は木葉衰枯する時なれども、物の成熟すること多し、其家風の縮りたるに似たり。春夏秋冬一偏に傾かざる樣に家風を正すを、主將の器と言ふべしと。 ○氏鄕、平生武職を守り、聊も怠らず。日夜家臣を集めて武道を琢磨し、明日の合戰に、其言に違はず働くことを專一とせい、家に財を蓄ろことなく、智士勇者を諸方より招て財祿を與へ、死を與に爲さんことを欲する故、天下の名士多く歸屬せり。之に依り秀吉、奧州の鎭壓とはせられけり。凡そ祿百餘萬石に充れども、臺所間々失食のことありて、家臣の徒より交々之を養ひしことありしとぞ。 ○氏鄕曰く、『雲は皆、拂ひ果てたる、秋風を、松に殘して、月をこそ見れ』。又『月澄みて、雲皆空に、消果てゝ、深山隱くれを、行く嵐哉』。此二首の和歌は軍法の心得に、大將たる者味ふべきなりと。 ○氏鄕、夜話には怪談を好めり。又武邊の話になりては、退屈せぬものなりとて、蠟燭二挺を限りに、夜話の者退出す、夏の夜は蠟燭を短く剪て風所に燈し置かれけり。
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名将言行録・『名将言行録』竹中重治 相手の短を暴かない器○長篠の役、勝負未だ何れとも知れざりし時、武田勝賴右備を秀吉の陣の左の方へ、二町餘に移し備へしを、秀吉の臣谷大膳亮衞好之を見て、此方の備も武田が勢に從ひ移し候ふべしと下知しける所に、重治否々あの備は本の陣へ歸るべき勢なり、只其儘備を固め然るべしと申しゝかども、衞好聽かず、秀吉に申し敵の向ふに從ひ、味方の勢をも備を直し然るべく候はんと申しゝを、重治違て惡かりなんと言つゝ評論せしを、秀吉聞て何を爭ひ候ぞや、我勢は我次第たるべしとて衞好差圖の所へ勢を移したり。然るに重治手勢千計りは、動ぜず、彌々備を固くして居たる所に、半時も未だ過ぎざるに、勝賴備を元の陣に返しかば、秀吉の勢も又元の陣に返し來りしなり。重治尋常の人ならんには、偖右往左往なる體とて笑み〱しかるべきに、却つて笑止なる樣に言ひしかば、衞好殊の外面目なき由申しゝなり。其頃重治振舞長さ〱敷こと哉と言て感じけり。都て己が長を舒んと思ふ心もなく、他の短を顯はさんともせず、如何にも大樣にありて、大形は信長に似たることもありしと時人は言ひあへり。 ○秀吉、中國陣の時、兵糧不足なるべし、心元なしと言はれし時、重治聞て御氣遣成さるまじとて、大阪尼崎邊辻々に札を立て、今度羽柴筑前守中國へ發向候、八木早速運送するに於ては、定まり相場一倍に代價相渡すべし云々と書きたり。之に依り兵糧澤山に湊ひたりとぞ。