名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 家康に老人を所望する
○氏郷、會津入部の時、江戸城に立寄る。家康兼ねて懇意なれば、殊の外喜び、形の如くの饗應あり、偖言はれけるは、奥州押さへとありて、會津の城御拜領は大なる御手柄なり、近國の義なれば萬端申合はすべく候、我等一入喜びに存ずるなり、何ぞ御餞別申度候、願くは御望みあれかしと言はろ。氏鄕先づ以て忝き御心入なり、去ながら存寄らざる大名に仰付られ、俄に有德人と罷成り、隨分支度致しければ、不足なることは之なく候、然かし思召寄られたる仰を蒙る上は一種所望申べし、御意に掛らるべくやとありければ、家康手前に相叶ふ程の義は、何に寄らず御所望に任せ申べしとなり。氏鄕左候は丶申上ぐべし、只今御座敷へ罷通る節見候へば、色眞黑なる老人朱鞘の大脇差を橫たへ指居りたる者は何者にて候や、近項面白き男振に候へば某家來に致し、今度入部の時に召連度の間、御意に懸られ候は丶、何を賜はり候より忝く存ずべしとなり。家康聞て、何より易きことに存候、早々進ずべくと申度候へ共、あの老人は若年の時武田信玄の家來、板垣信形の草履取りたる男にて、一向筋目もなき者にて、信形が悴彌次郎事、信玄へ對して不奉公を致し、其外種々の惡事之あるに付、信玄より成敗申付らる、其節あの老人は曲淵庄左衞門と申して侍になり、件の彌次郎に奉公致し居りけるが、主の彌次郎を殺し給ふ上は、是非とも信玄を打殺すべしとて、忍び廻りたる程の無分別者にて、其上御覽ぜよ、極老の身と罷成りければ、召使はれても何の御用にも相立申間敷、此段は幾重にも御斷り申べしと言はろ。氏鄕曰く筋目にも、分別にも、少しも構之なく、勿論年寄たるも苦しからず候へ共、無類の御寵愛と見及び、違て所望申上ろも如何なり、兼て承はり及びたる曲淵ことなれば、知ろ人に相成り、少々昔物語なりとも承はり度と望みし故、曲淵其席へ出て、時信、勝賴、二代の間の物語に、刻を移しけるとぞ。
新字:○氏郷、会津入部の時、江戸城に立寄る。家康兼ねて懇意なれば、殊の外喜び、形の如くの饗応あり、偖言はれけるは、奥州押さへとありて、会津の城御拝領は大なる御手柄なり、近国の義なれば万端申合はすべく候、我等一入喜びに存ずるなり、何ぞ御餞別申度候、願くは御望みあれかしと言はろ。氏郷先づ以て忝き御心入なり、去ながら存寄らざる大名に仰付られ、俄に有徳人と罷成り、随分支度致しければ、不足なることは之なく候、然かし思召寄られたる仰を蒙る上は一種所望申べし、御意に掛らるべくやとありければ、家康手前に相叶ふ程の義は、何に寄らず御所望に任せ申べしとなり。氏郷左候は丶申上ぐべし、只今御座敷へ罷通る節見候へば、色真黒なる老人朱鞘の大脇差を横たへ指居りたる者は何者にて候や、近項面白き男振に候へば某家来に致し、今度入部の時に召連度の間、御意に懸られ候は丶、何を賜はり候より忝く存ずべしとなり。家康聞て、何より易きことに存候、早々進ずべくと申度候へ共、あの老人は若年の時武田信玄の家来、板垣信形の草履取りたる男にて、一向筋目もなき者にて、信形が悴弥次郎事、信玄へ対して不奉公を致し、其外種々の悪事之あるに付、信玄より成敗申付らる、其節あの老人は曲淵庄左衛門と申して侍になり、件の弥次郎に奉公致し居りけるが、主の弥次郎を殺し給ふ上は、是非とも信玄を打殺すべしとて、忍び廻りたる程の無分別者にて、其上御覧ぜよ、極老の身と罷成りければ、召使はれても何の御用にも相立申間敷、此段は幾重にも御断り申べしと言はろ。氏郷曰く筋目にも、分別にも、少しも構之なく、勿論年寄たるも苦しからず候へ共、無類の御寵愛と見及び、違て所望申上ろも如何なり、兼て承はり及びたる曲淵ことなれば、知ろ人に相成り、少々昔物語なりとも承はり度と望みし故、曲淵其席へ出て、時信、勝頼、二代の間の物語に、刻を移しけるとぞ。
書き下し
○氏郷、會津入部の時、江戸城に立寄る。家康兼ねて懇意なれば、殊の外喜び、形の如くの饗應あり、偖言はれけるは、奥州押さへとありて、會津の城御拜領は大なる御手柄なり、近國の義なれば萬端申合はすべく候、我等一入喜びに存ずるなり、何ぞ御餞別申度候、願くは御望みあれかしと言はろ。氏鄕先づ以て忝き御心入なり、去ながら存寄らざる大名に仰付られ、俄に有德人と罷成り、隨分支度致しければ、不足なることは之なく候、然かし思召寄られたる仰を蒙る上は一種所望申べし、御意に掛らるべくやとありければ、家康手前に相叶ふ程の義は、何に寄らず御所望に任せ申べしとなり。氏鄕左候は丶申上ぐべし、只今御座敷へ罷通る節見候へば、色眞黑なる老人朱鞘の大脇差を橫たへ指居りたる者は何者にて候や、近項面白き男振に候へば某家來に致し、今度入部の時に召連度の間、御意に懸られ候は丶、何を賜はり候より忝く存ずべしとなり。家康聞て、何より易きことに存候、早々進ずべくと申度候へ共、あの老人は若年の時武田信玄の家來、板垣信形の草履取りたる男にて、一向筋目もなき者にて、信形が悴彌次郎事、信玄へ對して不奉公を致し、其外種々の惡事之あるに付、信玄より成敗申付らる、其節あの老人は曲淵庄左衞門と申して侍になり、件の彌次郎に奉公致し居りけるが、主の彌次郎を殺し給ふ上は、是非とも信玄を打殺すべしとて、忍び廻りたる程の無分別者にて、其上御覽ぜよ、極老の身と罷成りければ、召使はれても何の御用にも相立申間敷、此段は幾重にも御斷り申べしと言はろ。氏鄕曰く筋目にも、分別にも、少しも構之なく、勿論年寄たるも苦しからず候へ共、無類の御寵愛と見及び、違て所望申上ろも如何なり、兼て承はり及びたる曲淵ことなれば、知ろ人に相成り、少々昔物語なりとも承はり度と望みし故、曲淵其席へ出て、時信、勝賴、二代の間の物語に、刻を移しけるとぞ。
現代語訳
氏郷が会津に入部するとき、江戸城に立ち寄った。家康はかねて懇意だったので、ことのほか喜び、形どおりの饗応があり、そのうえで言った。奥州の押さえとして会津の城を拝領されたのは大きな御手柄である。近い国のことだから万事相談し合おう。私も一入喜んでいる。何か餞別を差し上げたい。どうか望みを言ってほしい。氏郷は、まことにかたじけないお心入れです。しかし思いがけず大名に仰せつけられ、にわかに有徳人となり、十分に支度をしましたので、不足はありません。ただ、お心にかけられた仰せを蒙る上は、一品を所望します。お聞き入れくださいますか、と言うと、家康は、自分の手元でかなう程度のことなら、何によらず所望に任せよう、と言った。氏郷は、それでは申し上げます。ただいま座敷へ通るとき見ましたところ、色の真っ黒な老人で朱鞘の大脇差を横たえて指していた者は何者でしょうか。近ごろ面白い男ぶりなので、私の家来にして、このたび入部のとき連れて行きたいのです。お許しいただけるなら、何よりありがたく存じます、と言った。家康は聞いて、何よりたやすいことで、すぐに差し上げると申したいが、あの老人は若いころ武田信玄の家来、板垣信形の草履取りで、まったく筋目もない者です。信形の悴の弥次郎が信玄に対して不奉公をし、そのほか種々の悪事があったので、信玄から成敗を言いつけられました。そのとき、あの老人は曲淵庄左衛門と名のって侍になり、その弥次郎に奉公していましたが、主の弥次郎を殺された上は、ぜひとも信玄を討ち殺すと言って、忍び回ったほどの無分別者です。そのうえ御覧のとおり極めて老いており、召し使っても何の御用にも立ちますまい。この件は幾重にもお断りします、と言った。氏郷は、筋目にも分別にも少しも構いません。もちろん年寄りも苦しくありません。ただ無類の御寵愛と見受けたので、あえて所望するのもどうかと思いましたが、かねて聞き及んだ曲淵のことですので、知り人となり、少しは昔物語でも伺いたいのです、と望んだので、曲淵はその席に出て、信玄・勝頼二代の間の物語に、時を移した、という。
解説

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名将言行録・『名将言行録』伊達政宗 鷹場の笑い話○元和の初、將軍鷹場近邊にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、將軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合はせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て餘多の人を召具し、鷹使ひながら參られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隱くし、漸ゝと迯去り、竹藪の陰に潛り居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盜みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はう/\に迯れんとせしに、其方竹藪の陰に蹲り居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと迯たりと言はれければ、政宗承はりて、左樣のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盜み狩りに參りしに、御成の樣子を見て、息をこらし隱れ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、迯ながらも、少しは息を休むべきものを、双方各人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を發して笑ければ、伺候の輩も、皆ゝ腹を抱へたりとぞ。 ○寬永四年二月、加藤嘉明會津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢しかば、足下父子に會津の地預け給ひたると承はる、會津は全く陸奧の鎭衞の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の爲めに、容易は防ぎ留められまじと言て、大聲を發して笑ひたり。明成、其聲の下より、老黃門、若し今の祿に倍して百二十萬石をも領し給はゞ、今にても取掛け申すべきをと申しけりとぞ。
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