名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 勝ちに乗らず敵を降す
○氏郷、既に松ヶ島へ入部す。時に木造左衞門佐長正、日置城に在て、近鄰を押領す。又氏郷領分へも、夜毎に出て刈田す。氏郷眞先に進み、度々之を擊敗りたり。長正、工夫し、氏郷は眞先に進む將なればとて九月十五日の夜、氏郷領分曾原と曰ふ所に伏兵を置き、氏郷出なば擊取るべしと支度して、何つもの如く、刈田せり。氏郷の物聞、兼て約束の鳥銃を打ちければ、氏郷兵二千を率る、松ヶ島を打立ち、曾原より、三十町計り此方に千餘人を備置き、自ら五百餘人を率る、三四町先に進み備へたり。兼ねて千餘の胴勢へ敵掛り來る頃、我五百の備蓄みて一つになるべし、兼て心得よと令し、殘兵四百餘人を刈田の敵に掛らせしかば、敵の伏兵起り、味方を追掛る。氏郷定めの如く千餘の胴勢と一つに成て、追來る敵を縱橫に奮擊し、大に木造の兵を敗り、日置城下まで追詰め物頭をする究竟の士三十七人、其外冑付四十六、雜兵數多擊取て、勝鬨童と作り日置城下十町計り引いて陣取りける時に、老臣此勢に乘じ、直ぐに城に付入り、木造を擊亡し給へと言ければ、氏郷曰く、汝等申通り擊亡すに、手間は入るべからず、去れども木造を亡すに於ては、自餘の敵城共とても、逃れぬことと思ひ、固く守らんには、夫を平ぐるに手間取るべし、今夜の戰に過半物頭、其外能き士多く擊取りければ、大方木造は降參すべしとて付入にせず。翌日木造降參す。氏郷、命を助けるのみならず、傳馬人足以下申付け懇にして送らる。是を聞て自餘の敵城、或は降參し、或は被官となる者多し。果して氏郷が計りし如し。
新字:○氏郷、既に松ヶ島へ入部す。時に木造左衛門佐長正、日置城に在て、近鄰を押領す。又氏郷領分へも、夜毎に出て刈田す。氏郷真先に進み、度々之を撃敗りたり。長正、工夫し、氏郷は真先に進む将なればとて九月十五日の夜、氏郷領分曽原と曰ふ所に伏兵を置き、氏郷出なば撃取るべしと支度して、何つもの如く、刈田せり。氏郷の物聞、兼て約束の鳥銃を打ちければ、氏郷兵二千を率る、松ヶ島を打立ち、曽原より、三十町計り此方に千余人を備置き、自ら五百余人を率る、三四町先に進み備へたり。兼ねて千余の胴勢へ敵掛り来る頃、我五百の備蓄みて一つになるべし、兼て心得よと令し、残兵四百余人を刈田の敵に掛らせしかば、敵の伏兵起り、味方を追掛る。氏郷定めの如く千余の胴勢と一つに成て、追来る敵を縦横に奮撃し、大に木造の兵を敗り、日置城下まで追詰め物頭をする究竟の士三十七人、其外冑付四十六、雑兵数多撃取て、勝鬨童と作り日置城下十町計り引いて陣取りける時に、老臣此勢に乗じ、直ぐに城に付入り、木造を撃亡し給へと言ければ、氏郷曰く、汝等申通り撃亡すに、手間は入るべからず、去れども木造を亡すに於ては、自余の敵城共とても、逃れぬことと思ひ、固く守らんには、夫を平ぐるに手間取るべし、今夜の戦に過半物頭、其外能き士多く撃取りければ、大方木造は降参すべしとて付入にせず。翌日木造降参す。氏郷、命を助けるのみならず、伝馬人足以下申付け懇にして送らる。是を聞て自余の敵城、或は降参し、或は被官となる者多し。果して氏郷が計りし如し。
書き下し
○氏郷、既に松ヶ島へ入部す。時に木造左衞門佐長正、日置城に在て、近鄰を押領す。又氏郷領分へも、夜毎に出て刈田す。氏郷眞先に進み、度々之を擊敗りたり。長正、工夫し、氏郷は眞先に進む將なればとて九月十五日の夜、氏郷領分曾原と曰ふ所に伏兵を置き、氏郷出なば擊取るべしと支度して、何つもの如く、刈田せり。氏郷の物聞、兼て約束の鳥銃を打ちければ、氏郷兵二千を率る、松ヶ島を打立ち、曾原より、三十町計り此方に千餘人を備置き、自ら五百餘人を率る、三四町先に進み備へたり。兼ねて千餘の胴勢へ敵掛り來る頃、我五百の備蓄みて一つになるべし、兼て心得よと令し、殘兵四百餘人を刈田の敵に掛らせしかば、敵の伏兵起り、味方を追掛る。氏郷定めの如く千餘の胴勢と一つに成て、追來る敵を縱橫に奮擊し、大に木造の兵を敗り、日置城下まで追詰め物頭をする究竟の士三十七人、其外冑付四十六、雜兵數多擊取て、勝鬨童と作り日置城下十町計り引いて陣取りける時に、老臣此勢に乘じ、直ぐに城に付入り、木造を擊亡し給へと言ければ、氏郷曰く、汝等申通り擊亡すに、手間は入るべからず、去れども木造を亡すに於ては、自餘の敵城共とても、逃れぬことと思ひ、固く守らんには、夫を平ぐるに手間取るべし、今夜の戰に過半物頭、其外能き士多く擊取りければ、大方木造は降參すべしとて付入にせず。翌日木造降參す。氏郷、命を助けるのみならず、傳馬人足以下申付け懇にして送らる。是を聞て自餘の敵城、或は降參し、或は被官となる者多し。果して氏郷が計りし如し。
現代語訳
氏郷が松ヶ島に入ったとき、木造左衛門佐長正は日置城にいて、近隣を押領していた。氏郷の領地にも夜ごとに出て刈り田をした。氏郷は先頭に進んで、たびたびこれを打ち破った。長正は工夫して、氏郷は先頭に進む大将だからと、九月十五日の夜、氏郷の領分の曾原という所に伏兵を置き、氏郷が出てくれば討ち取ろうと支度して、いつものように刈り田をした。氏郷の物見が、あらかじめ約束した鉄砲を撃ったので、氏郷は兵二千を率いて松ヶ島を出発し、曾原から三十町ほど手前に千余人を控えさせ、自らは五百余人を率いて三、四町先に進んで備えた。あらかじめ、千余の本隊に敵がかかってくるころ、わが五百が備えをたたんで一つになる、心得ておけ、と命じ、残る兵四百余人に刈り田の敵へ攻めかからせたところ、敵の伏兵が起き、味方を追いかけた。氏郷は定めたとおり千余の本隊と一つになって、追ってくる敵を縦横に打ち破り、木造の兵を大いに敗り、日置城下まで追い詰め、物頭を務める屈強の士三十七人、そのほか兜をつけた者四十六人、雑兵は数多く討ち取り、勝ちどきをあげて、日置城下から十町ほど引いて陣を取った。このとき老臣が、この勢いに乗じてすぐに城へ付け入り、木造を討ち滅ぼしなされ、と言うと、氏郷は言った。お前たちの言うとおり討ち滅ぼすのに手間はいらない。しかし木造を滅ぼしたなら、ほかの敵城も逃れられぬと思って固く守り、それを平らげるのに手間取るだろう。今夜の戦で物頭の過半とそのほかの良い士を多く討ち取ったので、おそらく木造は降参するだろう、と言って付け入らなかった。翌日、木造は降参した。氏郷は命を助けただけでなく、伝馬や人足などを言いつけて丁重に送り届けた。これを聞いて、ほかの敵城は降参したり、家臣になったりする者が多かった。果たして氏郷の見込んだとおりであった。
解説

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