名将言行録 / 『名将言行録』蒲生氏郷 本能寺の変と領地の返上
○天正十年六月、信長父子、明智が爲めに都にて害せられし時、賢秀は安土城の留守なり。氏郷は日野城に在り、其變を聞て、手勢五百餘騎、輿五十挺、鞍置馬百疋、外に二百疋を從へて其夜腰越まで來り、先づ案内通ず。賢秀大に喜び、信長の御臺所、姫君を始とし、女房達に至るまで、悉く引纏て日野の城に入れ、急ぎ軍勢を催して逆徒誅伐の謀を廻らす。光秀此由を聞て、使を以て光秀に一味たらんには、近江半國を與ふべしと申來りけれども、曾て同心せず、使再三に及びしかども、罵り返して對面にだも及ばず。光秀去らばとて、先づ日野城に向はんとす。斯る所に信孝が勢、攝津より攻上り、光秀忽ち討れけり。氏郷、北畠信雄の供して都に一登りしに、秀吉、氏郷が、此度の振廻を深く感じ、明智に黨せし當國の國人等が闕所の地、蒲生にぞ付けられける。 ○十一年、秀吉、信孝と不快の事起り、四月柴田勝家を亡ぼし、八月瀧川一益が龜山城を陷る。氏郷、秀吉に屬して功あり。此勸賞として龜山を賜ふ。氏郷畏て申す樣、龜山は關氏累代傳領の地なれば、失はしむること不便なり、哀れ、右兵衞佐一政に返し賜はらばやと望みしかば、秀吉去らば、汝の望みに任せよとて、一政にぞ下し賜ひける。關は氏郷が緣ある者なり。
新字:○天正十年六月、信長父子、明智が為めに都にて害せられし時、賢秀は安土城の留守なり。氏郷は日野城に在り、其変を聞て、手勢五百余騎、輿五十挺、鞍置馬百疋、外に二百疋を従へて其夜腰越まで来り、先づ案内通ず。賢秀大に喜び、信長の御台所、姫君を始とし、女房達に至るまで、悉く引纏て日野の城に入れ、急ぎ軍勢を催して逆徒誅伐の謀を廻らす。光秀此由を聞て、使を以て光秀に一味たらんには、近江半国を与ふべしと申来りけれども、曽て同心せず、使再三に及びしかども、罵り返して対面にだも及ばず。光秀去らばとて、先づ日野城に向はんとす。斯る所に信孝が勢、摂津より攻上り、光秀忽ち討れけり。氏郷、北畠信雄の供して都に一登りしに、秀吉、氏郷が、此度の振廻を深く感じ、明智に党せし当国の国人等が闕所の地、蒲生にぞ付けられける。 ○十一年、秀吉、信孝と不快の事起り、四月柴田勝家を亡ぼし、八月滝川一益が亀山城を陥る。氏郷、秀吉に属して功あり。此勧賞として亀山を賜ふ。氏郷畏て申す様、亀山は関氏累代伝領の地なれば、失はしむること不便なり、哀れ、右兵衛佐一政に返し賜はらばやと望みしかば、秀吉去らば、汝の望みに任せよとて、一政にぞ下し賜ひける。関は氏郷が縁ある者なり。
書き下し
○天正十年六月、信長父子、明智が爲めに都にて害せられし時、賢秀は安土城の留守なり。氏郷は日野城に在り、其變を聞て、手勢五百餘騎、輿五十挺、鞍置馬百疋、外に二百疋を從へて其夜腰越まで來り、先づ案内通ず。賢秀大に喜び、信長の御臺所、姫君を始とし、女房達に至るまで、悉く引纏て日野の城に入れ、急ぎ軍勢を催して逆徒誅伐の謀を廻らす。光秀此由を聞て、使を以て光秀に一味たらんには、近江半國を與ふべしと申來りけれども、曾て同心せず、使再三に及びしかども、罵り返して對面にだも及ばず。光秀去らばとて、先づ日野城に向はんとす。斯る所に信孝が勢、攝津より攻上り、光秀忽ち討れけり。氏郷、北畠信雄の供して都に一登りしに、秀吉、氏郷が、此度の振廻を深く感じ、明智に黨せし當國の國人等が闕所の地、蒲生にぞ付けられける。 ○十一年、秀吉、信孝と不快の事起り、四月柴田勝家を亡ぼし、八月瀧川一益が龜山城を陷る。氏郷、秀吉に屬して功あり。此勸賞として龜山を賜ふ。氏郷畏て申す樣、龜山は關氏累代傳領の地なれば、失はしむること不便なり、哀れ、右兵衞佐一政に返し賜はらばやと望みしかば、秀吉去らば、汝の望みに任せよとて、一政にぞ下し賜ひける。關は氏郷が緣ある者なり。
現代語訳
天正十年六月、信長父子が明智のために都で殺されたとき、賢秀は安土城の留守を預かっていた。氏郷は日野城にいたが、その変を聞いて、手勢五百余騎、輿五十挺、鞍を置いた馬百匹、そのほかに二百匹を従えて、その夜腰越まで来て、まず案内を通じた。賢秀は大いに喜び、信長の御台所、姫君をはじめ、女房たちに至るまで、すべて引き連れて日野の城に入れ、急ぎ軍勢を集めて賊を誅伐する計画をめぐらせた。光秀はこれを聞いて、使いを寄こし、光秀に味方するなら近江半国を与えようと言ってきたが、少しも同意せず、使いが再三に及んでも、罵り返して対面さえしなかった。光秀はそれならばと、まず日野城へ向かおうとした。そのとき信孝の軍勢が摂津から攻め上り、光秀はたちまち討たれた。氏郷が北畠信雄の供をして都に上ると、秀吉は氏郷のこのたびの振る舞いを深く感じ、明智に味方した近江の国人らの没収地を蒲生に与えた。 十一年、秀吉が信孝と不和になり、四月に柴田勝家を滅ぼし、八月に滝川一益の亀山城を落とした。氏郷は秀吉に属して功があった。その褒賞として亀山を与えられた。氏郷は恐れ入って、亀山は関氏が代々伝えてきた地なので、失わせるのはふびんです、どうか右兵衛佐一政にお返しください、と望んだ。秀吉は、それならお前の望みに任せようと言って、一政に下した。関は氏郷と縁のある者である。
解説

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