名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 名物を遺して果てる
○光春、既に坂本の城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動國行、二字國俊の刀、藥研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜抔云へる名物の器を、唐織の肩衣に包み、左馬之助自害するに、天下の重器を同じく滅せんこと無益なれば、目錄相副へ進ずる所なりと言て、天守より縋下し二の谷の冑に、羽織と黃金百兩副へて、百箇日までの弔を頼むとて、坂本の西敎寺に送り、偖大音揚げて申樣、城中未だ見苦敷者共之あり候、心靜に夜中取片付け、明朝切腹致すべく間、今日城攻猶豫の儀を斷はり申と呼はれば、寄手も少し引退きたり。夜陰に及びて、大手の門に案内を申入る者あり、入江長兵衞尉と云ふ者なり、光春に對面せんと言ふ。光春舊友の事なれば、頓て櫓の上より入江に逢ひ、訣別して後言けるは、我身死せんこと、今を限りに候、末期の一言を以て、貴殿に遺さんと言ふ。何事にて候ぞと言へば、光春曰く、我少かりし時より戰場に臨むこと、魁殿の功を志し、武名を揚んと勵みたれども、畢竟是れ身を殺し、子孫の後榮を思ふに在り。然れども、天命縮まる時は、今日の我なり、生前幾くか危險を侵し艱苦を嘗めたるも、終に成る所なくして斯の如くなりぬ、貴殿も亦斯の如くなるべきのみ。同じくは、仕を罷め、身安きに居て、危を踏まざれ、我貴殿に黃金を遺らん、之を恆の產にせられよと言て、三百兩入れたる革袋を投げ出し、城の掃除終て後、女童を刺殺し、心靜に墨磨り流し『一戰國中生。未レ知風月情。朝出師望レ魁。夕地策連レ營。依レ几臥龍術。橫レ鉾千里行。幾英名如レ夢。終節歸二清明一。』と書し、十五日曉に火を掛けて自害せり。羽柴勢坂本にては、一と合戰あるべし、殊に光春大津にての働は、見知りたり。最後の軍は嘸ぞ花々敷からんと思ひしには似もせず、矢一つも射ずして、斯く成り行きしかば、秀吉も流石に希なる侍やと、暫し感じて辭なし。
新字:○光春、既に坂本の城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動国行、二字国俊の刀、薬研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜抔云へる名物の器を、唐織の肩衣に包み、左馬之助自害するに、天下の重器を同じく滅せんこと無益なれば、目録相副へ進ずる所なりと言て、天守より縋下し二の谷の冑に、羽織と黄金百両副へて、百箇日までの弔を頼むとて、坂本の西教寺に送り、偖大音揚げて申様、城中未だ見苦敷者共之あり候、心静に夜中取片付け、明朝切腹致すべく間、今日城攻猶予の儀を断はり申と呼はれば、寄手も少し引退きたり。夜陰に及びて、大手の門に案内を申入る者あり、入江長兵衛尉と云ふ者なり、光春に対面せんと言ふ。光春旧友の事なれば、頓て櫓の上より入江に逢ひ、訣別して後言けるは、我身死せんこと、今を限りに候、末期の一言を以て、貴殿に遺さんと言ふ。何事にて候ぞと言へば、光春曰く、我少かりし時より戦場に臨むこと、魁殿の功を志し、武名を揚んと励みたれども、畢竟是れ身を殺し、子孫の後栄を思ふに在り。然れども、天命縮まる時は、今日の我なり、生前幾くか危険を侵し艱苦を嘗めたるも、終に成る所なくして斯の如くなりぬ、貴殿も亦斯の如くなるべきのみ。同じくは、仕を罷め、身安きに居て、危を踏まざれ、我貴殿に黄金を遺らん、之を恒の産にせられよと言て、三百両入れたる革袋を投げ出し、城の掃除終て後、女童を刺殺し、心静に墨磨り流し『一戦国中生。未レ知風月情。朝出師望レ魁。夕地策連レ営。依レ几臥竜術。横レ鉾千里行。幾英名如レ夢。終節帰二清明一。』と書し、十五日暁に火を掛けて自害せり。羽柴勢坂本にては、一と合戦あるべし、殊に光春大津にての働は、見知りたり。最後の軍は嘸ぞ花々敷からんと思ひしには似もせず、矢一つも射ずして、斯く成り行きしかば、秀吉も流石に希なる侍やと、暫し感じて辞なし。
書き下し
○光春、既に坂本の城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動國行、二字國俊の刀、藥研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜抔云へる名物の器を、唐織の肩衣に包み、左馬之助自害するに、天下の重器を同じく滅せんこと無益なれば、目錄相副へ進ずる所なりと言て、天守より縋下し二の谷の冑に、羽織と黃金百兩副へて、百箇日までの弔を頼むとて、坂本の西敎寺に送り、偖大音揚げて申樣、城中未だ見苦敷者共之あり候、心靜に夜中取片付け、明朝切腹致すべく間、今日城攻猶豫の儀を斷はり申と呼はれば、寄手も少し引退きたり。夜陰に及びて、大手の門に案内を申入る者あり、入江長兵衞尉と云ふ者なり、光春に對面せんと言ふ。光春舊友の事なれば、頓て櫓の上より入江に逢ひ、訣別して後言けるは、我身死せんこと、今を限りに候、末期の一言を以て、貴殿に遺さんと言ふ。何事にて候ぞと言へば、光春曰く、我少かりし時より戰場に臨むこと、魁殿の功を志し、武名を揚んと勵みたれども、畢竟是れ身を殺し、子孫の後榮を思ふに在り。然れども、天命縮まる時は、今日の我なり、生前幾くか危險を侵し艱苦を嘗めたるも、終に成る所なくして斯の如くなりぬ、貴殿も亦斯の如くなるべきのみ。同じくは、仕を罷め、身安きに居て、危を踏まざれ、我貴殿に黃金を遺らん、之を恆の產にせられよと言て、三百兩入れたる革袋を投げ出し、城の掃除終て後、女童を刺殺し、心靜に墨磨り流し『一戰國中生。未レ知風月情。朝出師望レ魁。夕地策連レ營。依レ几臥龍術。橫レ鉾千里行。幾英名如レ夢。終節歸二清明一。』と書し、十五日曉に火を掛けて自害せり。羽柴勢坂本にては、一と合戰あるべし、殊に光春大津にての働は、見知りたり。最後の軍は嘸ぞ花々敷からんと思ひしには似もせず、矢一つも射ずして、斯く成り行きしかば、秀吉も流石に希なる侍やと、暫し感じて辭なし。
現代語訳
○光春はすでに坂本城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動国行、二字国俊の刀、薬研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜など、名物の器を、唐織の肩衣に包み、「左馬之助が自害するにあたり、天下の重器を同じく滅ぼすのは無益なので、目録を添えて差し上げる」と言って、天守からつり下ろし、二の谷の兜に、羽織と黄金百両を添えて、百か日までの弔いを頼むとして、坂本の西教寺に送り、さて大声で、「城中にまだ見苦しいものどもがいる。心静かに夜中に片付け、明朝切腹するので、今日は城攻めの猶予をいただきたい」と呼びかけたので、寄せ手も少し引き下がりました。夜になって、大手の門に案内を請う者があり、入江長兵衛尉という者でした。光春に対面したいと言います。光春は旧友のことなので、すぐに櫓の上から入江に会い、別れを告げたのち言うには、「私の死は今日限りだ。最期の一言をあなたに遺したい」と。「何事でしょう」と問うと、光春は言いました。「私が若いころから戦場に臨んだのは、一番乗りの功を志し、武名をあげようと励んだからだが、結局これは、わが身を殺して、子孫の後の栄えを思うためだった。けれども、天命が縮まるとき、それが今日の私だ。生前、いくたびか危険を冒し、苦労をなめたが、結局何も成らずにこのようになった。あなたもまたこのようになるだけだ。同じことなら、仕官をやめ、身の安らかなところにいて、危うきを踏まないでいなさい。私はあなたに黄金を遣わそう。これを恒産にされよ」と言って、三百両を入れた革袋を投げ出し、城の掃除が終わったのち、女や子どもを刺し殺し、心静かに墨をすり流して、「一戦国中に生まれ、未だ風月の情を知らず。朝に出師して魁を望み、夕に地を策して営を連ぬ。几に依りて臥龍の術あり、鉾を横たえて千里を行く。幾たびの英名も夢のごとし、終に節は清明に帰す」と書き、十五日の明け方に火をかけて自害しました。羽柴勢は、坂本でひと合戦あるだろう、とくに光春は大津での働きを見知っている、最後の戦いはさぞ華々しいだろうと思っていたのに、まるで違い、矢一つも射ないままこうなったので、秀吉もさすがに稀有な侍だと、しばらく感じ入って言葉がありませんでした。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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史記 高祖功臣侯者年表太史公曰く、古者人臣の功に五品有り。徳を以て宗廟を立て社稷を定むるを勲と曰ひ、言を以てするを労と曰ひ、力を用ふるを功と曰ひ、其の等を明らかにするを伐と曰ひ、日を積むを閲と曰ふ。封爵の誓ひに曰く、「河をして帯の如く、泰山をして厲の若くならしむとも、国以て永く寧く、爰に苗裔に及ばん」と。始め未だ嘗て其の根本を固めんと欲せずんばあらず、而して枝葉稍く陵夷衰微す。余、高祖の侯功臣を読み、其の首封と、之を失ふ所以の者とを察して、曰く、異なるかな新たに聞く所と。書に曰く「万国を協和す」と、夏商に遷りて、或いは数千歳。蓋し周は八百を封じ、幽厲の後も春秋に見はる。尚書に唐虞の侯伯有り、三代を歴て千有余載、自ら全うして以て天子に蕃衛す、豈に仁義に篤く、上の法を奉ずるに非ずや。漢興りて、功臣の封を受くる者百有余人。天下初めて定まる、故に大城名都散亡し、戸口の得て数ふべき者十に二三、是を以て大侯も万家に過ぎず、小なる者は五六百戸。後数世、民咸郷里に帰り、戸益々息し、蕭・曹・絳・灌の属は或いは四万に至り、小侯も自ら倍し、富厚之の如し。子孫驕溢し、其の先を忘れ、淫嬖す。太初に至るまで百年の間、見侯五、余は皆法に坐して命を隕し国を亡ぼし、秏す。罔も亦少しく密なり、然れども皆身に当世の禁に兢兢たること無しと云ふ。今の世に居りて、古の道を志すは、自ら鏡みる所以なり、未だ必ずしも尽くは同じからず。帝王は各々礼を殊にし務めを異にす、要は成功を以て統紀と為す、豈に緄すべけんや。尊寵を得る所以及び廃辱せらるる所以を観れば、亦当世の得失の林なり、何ぞ必ずしも旧聞ならん。是に於いて其の終始を謹み、其の文を表し、頗る本末を尽くさざる所有り。其の明らかなるを著し、疑はしき者は之を闕く。後に君子有りて、推して之を列せんと欲すれば、以て覧るを得ん。
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