名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 敵将が惜しんだ最期
況て珍器名物を贈りしこと、松永久秀が志貴山滅亡の日祕藏せし平蜘の釜を碎きしとは、天地の違ひ、心の中の涼しさ、天晴惜き侍哉、三宅彌平治と云ひし浪人の昔より、今は一城の主として明智左馬助と云ふまで、所々の軍功數ふるに遑あらず、眼前大津の戰より、湖水を渡せし武邊の侍、誰か是に肩を並ぶべき、日向守が逆意は惡むべし、此者共は、日向守の恩に報いんとて斯く計り、尋常に終を取りしことの優しさよ、日向守の侍を養ひし心を織田殿に持たせたらましかば日向守が如き者も有間敷、左馬助が心を日向守に持たせたらんには、何にとて織田殿を討奉るべき。互に惜き振舞哉と言はれければ、三軍皆感歎せり。入江は光春の詞を然りとして軍終て後、仕を罷め京師に引籠りて、貨殖し、富家と成り、歡樂を極めしとぞ。
新字:況て珍器名物を贈りしこと、松永久秀が志貴山滅亡の日秘蔵せし平蜘の釜を砕きしとは、天地の違ひ、心の中の涼しさ、天晴惜き侍哉、三宅弥平治と云ひし浪人の昔より、今は一城の主として明智左馬助と云ふまで、所々の軍功数ふるに遑あらず、眼前大津の戦より、湖水を渡せし武辺の侍、誰か是に肩を並ぶべき、日向守が逆意は悪むべし、此者共は、日向守の恩に報いんとて斯く計り、尋常に終を取りしことの優しさよ、日向守の侍を養ひし心を織田殿に持たせたらましかば日向守が如き者も有間敷、左馬助が心を日向守に持たせたらんには、何にとて織田殿を討奉るべき。互に惜き振舞哉と言はれければ、三軍皆感嘆せり。入江は光春の詞を然りとして軍終て後、仕を罷め京師に引籠りて、貨殖し、富家と成り、歓楽を極めしとぞ。
書き下し
況て珍器名物を贈りしこと、松永久秀が志貴山滅亡の日祕藏せし平蜘の釜を碎きしとは、天地の違ひ、心の中の涼しさ、天晴惜き侍哉、三宅彌平治と云ひし浪人の昔より、今は一城の主として明智左馬助と云ふまで、所々の軍功數ふるに遑あらず、眼前大津の戰より、湖水を渡せし武邊の侍、誰か是に肩を並ぶべき、日向守が逆意は惡むべし、此者共は、日向守の恩に報いんとて斯く計り、尋常に終を取りしことの優しさよ、日向守の侍を養ひし心を織田殿に持たせたらましかば日向守が如き者も有間敷、左馬助が心を日向守に持たせたらんには、何にとて織田殿を討奉るべき。互に惜き振舞哉と言はれければ、三軍皆感歎せり。入江は光春の詞を然りとして軍終て後、仕を罷め京師に引籠りて、貨殖し、富家と成り、歡樂を極めしとぞ。
現代語訳
まして珍しい器や名物を贈ったことは、松永久秀が信貴山で滅んだ日に秘蔵の平蜘蛛の釜を砕いたのとは、天と地の違いである。心の中のすがすがしさ、あっぱれ惜しい侍だ。三宅彌平治という浪人の昔から、今は一城の主として明智左馬助というまで、各地での軍功は数えきれない。目の前の大津の戦いから湖水を渡った武辺の侍で、誰がこれに肩を並べられようか。日向守(光秀)の逆心は憎むべきだが、この者たちは日向守の恩に報いようとしてこう振る舞い、見事に最期を遂げたことの優しさよ。日向守が侍を養った心を織田殿に持たせたなら、日向守のような者もいなかっただろう。左馬助の心を日向守に持たせたなら、どうして織田殿を討ち奉っただろうか。たがいに惜しい振る舞いだと言われたので、三軍はみな感嘆しました。入江は光春の言葉をもっともだと思い、戦が終わったのち、仕官をやめて京都に引きこもり、財を殖やして、富裕な家となり、歓楽を極めたということです。
解説

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