名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 湖水を渡した馬
○光秀、既に信長を弑し、安土城を取り、光春に守らせて山崎に打向ひ、秀吉と戰はんとす。光春我を金の番人とはと言て、囁きつゝ守り居たりしが、山崎の戰を心元なく思ひ、安土を出で光秀を救はんと、京都を指して進む所に、早や光秀討れたりと聞えしかば、坂本の城へ入らんと、粟津を北へ大津を指して行く所に、秀吉の先陣堀秀政に行逢ひたり。光春少勢なれば打破られぬ。本道は既に敵に塞がれつ、已むを得ず、湖水に馬を打入れ泅がせければ、秀吉の軍兵汀に並居て溺れん有樣を見よと笑ひ居たり。光春は白練に雲龍を狩野永德に畫かせたる羽織を著、二の谷と云ふ冑を著、大鹿毛と名づけたる馬に乘り、年久く坂本に在りて、大津より唐崎までの遠淺は能く知たり、容易く唐崎濱に乘り上げ、一つ松の下にて、馬に息合の藥を飼ひ、追來る敵を見て居たりしが、又馬に乘り坂本に入る時、十王堂の前にて、馬より下り手綱を以て堂に繋ぎ、矢立硯取出し、明智左馬助湖水を渡せし馬なりと、札に書て手取髮に結付け、十四日己の刻に坂本の城に入りにけり。後其馬を秀吉、曙と名づけ、賤ヶ嶽の戰の時、美濃の大垣より二十里餘の惡所を乘られしとぞ。後三年の軍破れ、金澤の城落る時、清原家衡が祕藏の馬の敵の手に渡らんことを妬く思ひて、自身之を射殺したるに挍ぶれば、雲泥萬里の行跡やと世の談柄とはなりてけり。
新字:○光秀、既に信長を弑し、安土城を取り、光春に守らせて山崎に打向ひ、秀吉と戦はんとす。光春我を金の番人とはと言て、囁きつゝ守り居たりしが、山崎の戦を心元なく思ひ、安土を出で光秀を救はんと、京都を指して進む所に、早や光秀討れたりと聞えしかば、坂本の城へ入らんと、粟津を北へ大津を指して行く所に、秀吉の先陣堀秀政に行逢ひたり。光春少勢なれば打破られぬ。本道は既に敵に塞がれつ、已むを得ず、湖水に馬を打入れ泅がせければ、秀吉の軍兵汀に並居て溺れん有様を見よと笑ひ居たり。光春は白練に雲竜を狩野永徳に画かせたる羽織を著、二の谷と云ふ冑を著、大鹿毛と名づけたる馬に乗り、年久く坂本に在りて、大津より唐崎までの遠浅は能く知たり、容易く唐崎浜に乗り上げ、一つ松の下にて、馬に息合の薬を飼ひ、追来る敵を見て居たりしが、又馬に乗り坂本に入る時、十王堂の前にて、馬より下り手綱を以て堂に繋ぎ、矢立硯取出し、明智左馬助湖水を渡せし馬なりと、札に書て手取髪に結付け、十四日己の刻に坂本の城に入りにけり。後其馬を秀吉、曙と名づけ、賤ヶ嶽の戦の時、美濃の大垣より二十里余の悪所を乗られしとぞ。後三年の軍破れ、金沢の城落る時、清原家衡が秘蔵の馬の敵の手に渡らんことを妬く思ひて、自身之を射殺したるに挍ぶれば、雲泥万里の行跡やと世の談柄とはなりてけり。
書き下し
○光秀、既に信長を弑し、安土城を取り、光春に守らせて山崎に打向ひ、秀吉と戰はんとす。光春我を金の番人とはと言て、囁きつゝ守り居たりしが、山崎の戰を心元なく思ひ、安土を出で光秀を救はんと、京都を指して進む所に、早や光秀討れたりと聞えしかば、坂本の城へ入らんと、粟津を北へ大津を指して行く所に、秀吉の先陣堀秀政に行逢ひたり。光春少勢なれば打破られぬ。本道は既に敵に塞がれつ、已むを得ず、湖水に馬を打入れ泅がせければ、秀吉の軍兵汀に並居て溺れん有樣を見よと笑ひ居たり。光春は白練に雲龍を狩野永德に畫かせたる羽織を著、二の谷と云ふ冑を著、大鹿毛と名づけたる馬に乘り、年久く坂本に在りて、大津より唐崎までの遠淺は能く知たり、容易く唐崎濱に乘り上げ、一つ松の下にて、馬に息合の藥を飼ひ、追來る敵を見て居たりしが、又馬に乘り坂本に入る時、十王堂の前にて、馬より下り手綱を以て堂に繋ぎ、矢立硯取出し、明智左馬助湖水を渡せし馬なりと、札に書て手取髮に結付け、十四日己の刻に坂本の城に入りにけり。後其馬を秀吉、曙と名づけ、賤ヶ嶽の戰の時、美濃の大垣より二十里餘の惡所を乘られしとぞ。後三年の軍破れ、金澤の城落る時、清原家衡が祕藏の馬の敵の手に渡らんことを妬く思ひて、自身之を射殺したるに挍ぶれば、雲泥萬里の行跡やと世の談柄とはなりてけり。
現代語訳
○光秀はすでに信長を殺し、安土城を取って光春に守らせ、山崎に向かって秀吉と戦おうとしました。光春は「私を金の番人にするとは」とつぶやきながら守っていましたが、山崎の戦いが心もとなく、安土を出て光秀を救おうと、京都を目指して進むうちに、すでに光秀が討たれたと聞こえたので、坂本城へ入ろうと、粟津を北へ、大津を目指して行ったところ、秀吉の先陣の堀秀政に行き会いました。光春は小勢だったので打ち破られました。本道はすでに敵にふさがれ、やむをえず、湖水に馬を乗り入れて泳がせたので、秀吉の軍兵は岸辺に並んで、溺れる様子を見ようと笑っていました。光春は、白練に雲龍を狩野永徳に描かせた羽織を着て、二の谷という兜をかぶり、大鹿毛と名づけた馬に乗っており、長年坂本にいて、大津から唐崎までの遠浅をよく知っていたので、たやすく唐崎の浜に乗り上げ、一つ松の下で、馬に息合の薬を飼い、追ってくる敵を見ていましたが、また馬に乗って坂本に入るとき、十王堂の前で馬から下り、手綱でお堂につなぎ、矢立と硯を取り出して、「明智左馬助が湖水を渡した馬である」と札に書いて、馬のたてがみに結びつけ、十四日の巳の刻に坂本城に入りました。その後その馬を秀吉は曙と名づけ、賤ヶ岳の戦いのとき、美濃の大垣から二十里余りの悪路を乗ったといいます。後三年の戦いが敗れ、金沢の城が落ちるとき、清原家衡が秘蔵の馬が敵の手に渡るのを惜しんで、自ら射殺したのに比べると、雲泥万里の隔たりのある行いだと、世の語り草になったということです。
解説

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