名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 恩人と古参への礼
○光秀、忠興を聟と爲し、初めて忠興の邸へ招請の時、米田宗鑑に對面せんと申しけるに、宗鑑先きに替地せざることを恐れ、頻りに迷惑の色見えける。光秀、宗鑑迷惑すべきことにあらず、其時汝吾が望を違せば、吾今に至りて細川の家臣たるべきに、汝吾願を達せざりし故に、吾立去て信長公に仕へて、今斯く立身したり、是を思へば、汝は吾爲め福の神なりと、言はれけるにぞ、宗鑑初めて色を直しける。光秀常に我斯くなりしは、全く米田が蔭なりと言ひけるとぞ。 ○光秀、福智山にて父の年忌を弔ひけるに、四十萬石の大名なれば、家老、用人、奉行、頭人等規式の裝束にて、何れも嚴重なる體なり。燒香一番は、光秀、二番は左馬助光春、三番は治右衞門光忠、光忠遙に此方の屏風の陰にて、脇差を脱ておづ〳〵遣ひ出で、燒香せり。人皆之を笑ふ。時に光秀曰く、凡そ世に在らん者は、治右衞門が如くの心を忘るべからず、彼は父の代に明智近邊の百姓なりしを、召抱え足輕にしたり、我代になりては、段々取立て今家老の一人に爲し、明智の苗字を與へたり、昔を忘れざる所の禮讓感ずるに堪へたりとて、殊の外讚美せられけり。
新字:○光秀、忠興を婿と為し、初めて忠興の邸へ招請の時、米田宗鑑に対面せんと申しけるに、宗鑑先きに替地せざることを恐れ、頻りに迷惑の色見えける。光秀、宗鑑迷惑すべきことにあらず、其時汝吾が望を違せば、吾今に至りて細川の家臣たるべきに、汝吾願を達せざりし故に、吾立去て信長公に仕へて、今斯く立身したり、是を思へば、汝は吾為め福の神なりと、言はれけるにぞ、宗鑑初めて色を直しける。光秀常に我斯くなりしは、全く米田が蔭なりと言ひけるとぞ。 ○光秀、福智山にて父の年忌を弔ひけるに、四十万石の大名なれば、家老、用人、奉行、頭人等規式の装束にて、何れも厳重なる体なり。焼香一番は、光秀、二番は左馬助光春、三番は治右衛門光忠、光忠遥に此方の屏風の陰にて、脇差を脱ておづ〳〵遣ひ出で、焼香せり。人皆之を笑ふ。時に光秀曰く、凡そ世に在らん者は、治右衛門が如くの心を忘るべからず、彼は父の代に明智近辺の百姓なりしを、召抱え足軽にしたり、我代になりては、段々取立て今家老の一人に為し、明智の苗字を与へたり、昔を忘れざる所の礼譲感ずるに堪へたりとて、殊の外讃美せられけり。
書き下し
○光秀、忠興を聟と爲し、初めて忠興の邸へ招請の時、米田宗鑑に對面せんと申しけるに、宗鑑先きに替地せざることを恐れ、頻りに迷惑の色見えける。光秀、宗鑑迷惑すべきことにあらず、其時汝吾が望を違せば、吾今に至りて細川の家臣たるべきに、汝吾願を達せざりし故に、吾立去て信長公に仕へて、今斯く立身したり、是を思へば、汝は吾爲め福の神なりと、言はれけるにぞ、宗鑑初めて色を直しける。光秀常に我斯くなりしは、全く米田が蔭なりと言ひけるとぞ。 ○光秀、福智山にて父の年忌を弔ひけるに、四十萬石の大名なれば、家老、用人、奉行、頭人等規式の裝束にて、何れも嚴重なる體なり。燒香一番は、光秀、二番は左馬助光春、三番は治右衞門光忠、光忠遙に此方の屏風の陰にて、脇差を脱ておづ〳〵遣ひ出で、燒香せり。人皆之を笑ふ。時に光秀曰く、凡そ世に在らん者は、治右衞門が如くの心を忘るべからず、彼は父の代に明智近邊の百姓なりしを、召抱え足輕にしたり、我代になりては、段々取立て今家老の一人に爲し、明智の苗字を與へたり、昔を忘れざる所の禮讓感ずるに堪へたりとて、殊の外讚美せられけり。
現代語訳
光秀が忠興を婿として、初めて忠興の屋敷に招かれたとき、米田宗鑑に会いたいと言いました。宗鑑は先に替え地をしなかったことを恐れ、しきりに困った様子を見せました。光秀は、宗鑑が迷惑することではない、あのとき、お前が私の望みを聞き入れていたら、私は今も細川の家臣であっただろう、お前が私の願いを叶えなかったから、私は立ち去って信長公に仕え、今こうして出世したのだ、これを思えば、お前は私にとって福の神だと言うと、宗鑑は初めて顔色を直しました。光秀は常に、私がこうなったのは、全く米田のおかげだと言っていたということです。 光秀が福智山で父の年忌を営んだとき、四十万石の大名なので、家老・用人・奉行・頭人などが規式の装束で、誰もが厳重な様子でした。焼香の一番は光秀、二番は左馬助光春、三番は治右衛門光忠で、光忠は遠く向こうの屏風の陰で脇差を脱ぎ、おずおずと出て焼香しました。人は皆これを笑いました。そのとき光秀が言うには、およそ世にある者は、治右衛門のような心を忘れてはならない、彼は父の代には明智近辺の百姓だったのを、召し抱えて足軽にし、私の代になって段々取り立て、今は家老の一人にして、明智の苗字を与えた。昔を忘れない礼譲は感心するに堪えないと、特に称賛しました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・自力で得た知行明智光秀は、美濃の土岐氏の士族で、信長に仕へる前も、軍學者で可なり有名であつたらしく、三十九歳のとき四五千石で、信長に召し抱へられたと云ふから、子飼でもなければ譜代恩顧でもない。だから、本能寺異變後に、家臣に語つた言葉として(織田家に來て十七年になりぬれども、强いて信長の譜代恩顧と云ふには非ず。尤も君恩とは云ひながら、さのみ君恩と云ふに非るべし。只武勇の鋒先を以て軍功ある故なり、誠に晝夜安堵に住はず今日に至りぬ) と、ある。結局、自分の力で取つた知行だと云ふのであらう。これは、云ひ譯と云ふよりも、光秀のありのまゝの氣持であらう。 信長も、充分その實力を認めて(丹波國日向守の働き、天下の面目を施し候)と云つてゐる。とにかく、秀吉を山陽道に、光秀を山陰道に、振り分けた位だから、信長の信用も相當であつた。 謀反については、いろ〳〵な說があるが、教養があり形式を重んずる——どちらかと云へば、勿體ぶつた光秀と、戰國的豪傑である信長の奔放活達の形式破りの性格とが知らない間に相克したわけである。