名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 反間の計と久通への評
○信長、上杉輝虎が西向を患ひ、日夜之を禦ぐことを謀る。時に輝虎の一の先手、柿崎景家、越中に在城し、一年北國立の馬を尾張に遣はして賣らしむ。信長反間の本を得たりと、喜びて則ち買取り、黄金數百兩幷に、虎皮を景家に與へ、禮を厚くして、此後も駿馬あらば、必ず送り越されよ、と書牒を副へて言遣りける。景家は利欲の誹を恥て隱くして言はず、或人輝虎に讒す。輝虎大に怒て、審に紊すにも及ばず、景家を越中より呼びて之を責む。景家無禮の詞を出す。輝虎手刄して之を殺せり。信長の謀に依て輝虎一將を失へり。 ○五年十月、信長、松永久秀を志貴の城に攻めし時、堺より城中に兵粮を入る。信長之を聞き輕兵をして、兵粮を運ぶ人足に紛らして、城中に入らしめ、火を放たしむ。城兵大に驚き、狼狽する所を擊て、城を取りたり。 ○松永久秀、將に死せんとし、子右衞門佐久通を近づけて、汝は城を逃出で命を全して、時節を伺ひ、父が仇を報ずべしと言けるに、久通從はず、同く死せんと言ふ。久秀、大に怒て、汝は不幸なり、何ぞ父が命を拒む、と叱りければ、久通力及ばず、父の命に從ひ、逃出けるが、寄手、終に擒取て首を劉たり。人皆曰く、久通父が死するを見捨て落たるは不幸にして、未練に臆したる者なりと。信長聞いて、定めて父が敎へて落したるらん、久通臆する者にあらずと言はれしが、果して然り。
新字:○信長、上杉輝虎が西向を患ひ、日夜之を禦ぐことを謀る。時に輝虎の一の先手、柿崎景家、越中に在城し、一年北国立の馬を尾張に遣はして売らしむ。信長反間の本を得たりと、喜びて則ち買取り、黄金数百両幷に、虎皮を景家に与へ、礼を厚くして、此後も駿馬あらば、必ず送り越されよ、と書牒を副へて言遣りける。景家は利欲の誹を恥て隠くして言はず、或人輝虎に讒す。輝虎大に怒て、審に紊すにも及ばず、景家を越中より呼びて之を責む。景家無礼の詞を出す。輝虎手刄して之を殺せり。信長の謀に依て輝虎一将を失へり。 ○五年十月、信長、松永久秀を志貴の城に攻めし時、堺より城中に兵粮を入る。信長之を聞き軽兵をして、兵粮を運ぶ人足に紛らして、城中に入らしめ、火を放たしむ。城兵大に驚き、狼狽する所を撃て、城を取りたり。 ○松永久秀、将に死せんとし、子右衛門佐久通を近づけて、汝は城を逃出で命を全して、時節を伺ひ、父が仇を報ずべしと言けるに、久通従はず、同く死せんと言ふ。久秀、大に怒て、汝は不幸なり、何ぞ父が命を拒む、と叱りければ、久通力及ばず、父の命に従ひ、逃出けるが、寄手、終に擒取て首を劉たり。人皆曰く、久通父が死するを見捨て落たるは不幸にして、未練に臆したる者なりと。信長聞いて、定めて父が教へて落したるらん、久通臆する者にあらずと言はれしが、果して然り。
書き下し
○信長、上杉輝虎が西向を患ひ、日夜之を禦ぐことを謀る。時に輝虎の一の先手、柿崎景家、越中に在城し、一年北國立の馬を尾張に遣はして賣らしむ。信長反間の本を得たりと、喜びて則ち買取り、黄金數百兩幷に、虎皮を景家に與へ、禮を厚くして、此後も駿馬あらば、必ず送り越されよ、と書牒を副へて言遣りける。景家は利欲の誹を恥て隱くして言はず、或人輝虎に讒す。輝虎大に怒て、審に紊すにも及ばず、景家を越中より呼びて之を責む。景家無禮の詞を出す。輝虎手刄して之を殺せり。信長の謀に依て輝虎一將を失へり。 ○五年十月、信長、松永久秀を志貴の城に攻めし時、堺より城中に兵粮を入る。信長之を聞き輕兵をして、兵粮を運ぶ人足に紛らして、城中に入らしめ、火を放たしむ。城兵大に驚き、狼狽する所を擊て、城を取りたり。 ○松永久秀、將に死せんとし、子右衞門佐久通を近づけて、汝は城を逃出で命を全して、時節を伺ひ、父が仇を報ずべしと言けるに、久通從はず、同く死せんと言ふ。久秀、大に怒て、汝は不幸なり、何ぞ父が命を拒む、と叱りければ、久通力及ばず、父の命に從ひ、逃出けるが、寄手、終に擒取て首を劉たり。人皆曰く、久通父が死するを見捨て落たるは不幸にして、未練に臆したる者なりと。信長聞いて、定めて父が敎へて落したるらん、久通臆する者にあらずと言はれしが、果して然り。
現代語訳
信長は、上杉輝虎が西へ進むことを憂え、日夜これを防ぐことを謀った。そのとき輝虎の一の先手、柿崎景家は越中に在城していたが、ある年、北国産の馬を尾張に遣わして売らせた。信長は反間の手がかりを得たと喜び、すぐに買い取り、黄金数百両ならびに虎の皮を景家に与え、礼を厚くして、今後も駿馬があれば必ず送り越されよ、と書状を添えて言い遣わした。景家は利欲のそしりを恥じて隠して言わなかったが、ある人が輝虎に讒言した。輝虎は大いに怒り、詳しく調べるまでもなく、景家を越中から呼んでこれを責めた。景家は無礼の言葉を出した。輝虎は自ら刃を取ってこれを殺した。信長の謀によって輝虎は一将を失った。 五年十月、信長が松永久秀を志貴の城に攻めたとき、堺から城中に兵糧を入れていた。信長はこれを聞き、軽装の兵を兵糧を運ぶ人足に紛れさせて城中に入らせ、火を放たせた。城兵は大いに驚き、狼狽したところを撃って、城を取った。 松永久秀は、まさに死のうとするとき、子の右衛門佐久通を近づけて、お前は城を逃げ出して命を全うし、時節をうかがって、父の仇を報じよ、と言ったが、久通は従わず、ともに死のうと言った。久秀は大いに怒り、お前は不孝者だ、どうして父の命に逆らうのか、と叱ったので、久通は力及ばず、父の命に従って逃げ出したが、寄せ手がついに捕らえて首を刎ねた。人は皆、久通は父が死ぬのを見捨てて落ちたのは不孝であり、未練で臆した者だと言った。信長は聞いて、きっと父が教えて落としたのだろう、久通は臆する者ではない、と言われたが、はたしてそうであった。
解説

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名将言行録・『名将言行録』織田信長 強者と結び弱者を攻める○五年、上杉輝虎曰く、方今敵と目すべき者は、信長なり。信長を伐平げ、旗を京都に建んと。乃ち使を安土に遣り、來年三月十五日越後を發すべき旨を言遣りければ、信長返事に委細承屆けたり、此比諸國を、信長一分の働にて手に入り候上は、別に望み之なし、安土邊へ、御出馬に於ては、信長髮を削り無刀にて罷出、一禮を申し、其上にて關東三十三ヶ國は、進上致すべくとのことなり。輝虎之を聞て偖々信長は拔群の將哉、とて殊の外感歎せりとぞ。竟に出馬なくして卒せり。 ○信長、思へらく、天下の大計は、天子を挾みて四海に令するに在り、當今甲越は强く、濃江は弱し、强きに交りて、弱きを攻めば、則ち地得て拓くべく、京師得て通ずべしと。爰に於て詞を卑うし、幣を厚うして、以て甲越に交り、德川と和し、家康をして專ら東面に當らしめ、乃ち力を西路に專らにし、美濃を取り、近江を平げ、手に唾して京師に入れり。晴信、輝虎狺々として相噬みし中に、信長の旗旣に東山の上に建てり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉景勝 敵将の弱みを問う○天正六年輝虎卒しければ、景勝、三郎景虎と矛盾起る。厩橋の城主北城丹後守長國、景虎に與力し、度々春日山近邊に働く。景勝、長國さへ討取れば景虎は如何にもなるべしと思ひ、老功の者に、先づ長國の人となりを問ふ。皆曰く、士五十騎、或は、二百騎までの人數をば能く下知して引廻はし、敵の壘合を見積り一戰し、自身鎗を取て眞先に進み戰ふ無類の若者にて候へ共、第一の瑾には慢心ありて高ぶり、人を見下し候間、不慮の誤りあるべきかと存候、謙信公御意にも無類の健氣なる者なり、安藝守が子なれば先手をも申付べく候へ共、兩三度も能き働き致しなば、老功の者にも口を聞かせず、己一人の樣に豪言申べし、若し之を取立ては古老の習ひにて、初の程は取合もすまじけれども、長國も功を建ての上なれば、後には推參なりと存ずる氣出來挑み合ひ悶て致す間敷一戰抔し、老功の者に過ち出來なば我弓箭の落度なりと仰られ、御近習組の内百騎の士大將に仰付られ、御旗本の左右か、後に備へ、敵地放火刈田等の働き迫合抔あるべき所へは、大方此長國を指向けられたり、箇樣の儀は取分け、其身得手にて仕損ぜざる者に候と。景勝聞て、偖は早や勝利を得たり、敵の滅亡近々なりと言はれけり。偖詮議に敵大軍にて堅固の館に籠る故に、味方迅速の勝なし、景虎、長國とを兩方に引分け置かば、我は專らにして一ならん、其武略は某が一心の采幣にあり、一方勝利を得、景虎を打取らば、如何に長國なりとも踏み怺へて居ることなるまじ、長國を討取らば景虎は手に立つことにてなし。長國武道自慢にて某と勝負に利を得る程、景虎と一所に居ては獨立の譽れ聞えじと思ひ、景虎と引離れ、景勝へ對し一身の功名を志すべし。
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名将言行録・『名将言行録』織田信長 面目を雪ぐ機転と見立て○或陣に、一瀨久三郎、信長の胃を直し居たる所に、老臣林佐渡守通勝來り、一瀨に向ひて、御胃北向なり、直され候へと屹と言ける。誤りたりとて、驚て直さんとせしを、信長此敵は一揆のことなれば、何方より來らんも知らず、其儘置き候へと言はれしかば、一瀨面目を雪ぎけり。兎角せし中に、北の森の蔭より旆こそ見えけれとて、味方進み戰て終に大利を得たり。一瀨一番に掛合うて功名せり。其晩信長一瀨を召し、今朝の事は如何にと言はれければ、御意に依て面目を雪ぎて候と言へり。信長心地よげに、感狀、褒美を與へけり。又通勝をも召して挨拶ありしとぞ。 ○信長、美濃陣に唐の頭掛けたる武者の逃くるを、池田信輝、追掛け打取らんとするに、彼武者兎角して逃延びたり。信長、信輝を召し、彼唐の頭は神子田長門にてあるべしと言ふ。聞けば神子田なり。信長、左樣にてあるべし、先日の樣なる烈敷退口は、臆病者は逃兼ね、其儘首を取らるゝものなり、利發に取廻はし、逃げすましたるは、大剛の者にてあるべしと思ひたれば、案の如く神子田なりと言て笑はれたり。
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名将言行録・『名将言行録』織田信長 解かれた縄と名跡の継承○此役、赤地緞子の下帶したる武者を生擒たり。其名を問へど答へず。德川家康見て腹を切らせ申べく間、名告れと言はれければ、多田久藏と答ふ。信長、聞て美濃の者なり、我家に居よと謂はる。久藏、一度繩に掛りて、何とて御奉公申んと言ふ。信長昔も鈴木は繩を掛けらるゝも、今に譽れの名を殘せり。苦しからざる間、居り候へと言て、繩を解かしむ。暫くして物陰にて騷敷音せり。何事ぞと問ふに、只今の人繩を解きければ、長柄を取て三人まで突殺すの間、則ち殺したると申す。信長一度繩に掛りたる辱を雪んと斯の如く、假命徒若黨杯は突殺しても、苦しからざる間、其儘助け置くものをと惜まれしとぞ。 ○信長、信忠をして秋田城介に爲し、又西海の豪姓多く絶て嗣なきを以て、諸功臣をして、之を繼がしめんと欲し、則ち命じて其姓を冒さしむ。明智光秀、惟任氏を冒す。塙直正、原田氏を冒す。簗田政綱、別喜氏を冒す。丹羽長秀、惟任氏を冒す。是時に當り、織田氏の國天下の衢路に橫塞せり。信長、東國の鷹馬を以て、西國に贈遺し、西國の虎豹皮を以て東國に贈遺す。贈遺を得る者は、皆信長、旣に其地を略有すと思へり。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 凶日を逆手にとる○晴信、長時と、桔梗原に相戰ふ。日暮に及びければ、兩陣引退きて、陣を結ぶ。明日は先負の凶日なり、晴信、長時は定めて晴信も是を忌み、掛るべからずと思ひ、怠あらんことを察し、不意を擊て、大勝を得たり。 ○弘治二年八月、晴信上杉輝虎と對陣の時、晴信の斥候馳歸り、今度輝虎には長陣と相見え候と言ふ。晴信何を以て長陣と見たると問へば、輝虎の陣に夥しく薪積置候と答ふ。晴信聞て、即刻使番を以て、輝虎が陣に火事あるべし、其時此方より一人も出づべからず、若し相背くに於ては、其者一類まで曲事たるべくと觸させたり。偖二十四日晩方になり、案の如く輝虎の陣に火事出來たり。晴信井樓に上り、遠見せし所、火事も鎭まりければ、越後勢五六千程、草の中より弓銃鎗刀を持て出でたり。人皆晴信の明察に服せり。 ○永祿元年五月、甲越和睦の時、輝虎、晴信の馬より下りざるを憤り、犀川雪水大に出たるに無理に馬を乘り入れ、餘多能き侍を水にて殺し、輝虎も馬を乘放ち、流れたる大木に取付き、漸くに陸へ上れり。晴信之を聞き、輝虎弓箭には類ひなけれども、分別なし、其故は雪水出たる大河へ乘込む程ならば、そこにて死したるこそ尤なれ、馬を乘放し、上る程ならば、出たる河をば待て、水の落たる時渡て然るべきことなり、輝虎猛き武士故、我披官にも猛く見られんとの儀にてもあるべし、入らざる強みは、國を持者のせざる所なりと言はれたり。