名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 評・殺しすぎた信長
この本にもある無邊と云ふ坊主を殺した點なども痛快は痛快だが、大人氣ない。せい〴〵顔に烙印でもして追放する位でいゝ。信長の留守に、桑實寺に行樂に行つた女中達を斬つたり、久しぶりに訪れて來た伯母を、その不義を咎めて、物をも云はず切り殺したり、あまりに殺を嗜みすぎてゐる。孟子の言葉を借りるまでもなく、それでは大を成すわけには行かない。天正五、六年に信長に會つた安國寺惠瓊が、いまに(高ころびにころぶだらう)と、豫言してゐるが、心ある者の眼には、既にその兆が見えてゐるのであらう。 たゞ、勤王の點では、父信秀以來志がふかく秀吉以上である。その點では、家康が尤もいけない。信長が、天下を取つて、皇權ははるかに伸長してゐたと思はれるのである。勝家に與へた訓戒の中に、(公家の邑、亂賊の掠むる所となるものは、當に印券により還付すべし)とあるのは、朝廷や公卿の御料所は、還付せしめよと云ふ意味で、かう云ふ點でも、皇室尊崇の志が見えてゐると思ふ。
新字:この本にもある無辺と云ふ坊主を殺した点なども痛快は痛快だが、大人気ない。せい〴〵顔に烙印でもして追放する位でいゝ。信長の留守に、桑実寺に行楽に行つた女中達を斬つたり、久しぶりに訪れて来た伯母を、その不義を咎めて、物をも云はず切り殺したり、あまりに殺を嗜みすぎてゐる。孟子の言葉を借りるまでもなく、それでは大を成すわけには行かない。天正五、六年に信長に会つた安国寺恵瓊が、いまに(高ころびにころぶだらう)と、予言してゐるが、心ある者の眼には、既にその兆が見えてゐるのであらう。 たゞ、勤王の点では、父信秀以来志がふかく秀吉以上である。その点では、家康が尤もいけない。信長が、天下を取つて、皇権ははるかに伸長してゐたと思はれるのである。勝家に与へた訓戒の中に、(公家の邑、乱賊の掠むる所となるものは、当に印券により還付すべし)とあるのは、朝廷や公卿の御料所は、還付せしめよと云ふ意味で、かう云ふ点でも、皇室尊崇の志が見えてゐると思ふ。
書き下し
この本にもある無邊と云ふ坊主を殺した點なども痛快は痛快だが、大人氣ない。せい〴〵顔に烙印でもして追放する位でいゝ。信長の留守に、桑實寺に行樂に行つた女中達を斬つたり、久しぶりに訪れて來た伯母を、その不義を咎めて、物をも云はず切り殺したり、あまりに殺を嗜みすぎてゐる。孟子の言葉を借りるまでもなく、それでは大を成すわけには行かない。天正五、六年に信長に會つた安國寺惠瓊が、いまに(高ころびにころぶだらう)と、豫言してゐるが、心ある者の眼には、既にその兆が見えてゐるのであらう。 たゞ、勤王の點では、父信秀以來志がふかく秀吉以上である。その點では、家康が尤もいけない。信長が、天下を取つて、皇權ははるかに伸長してゐたと思はれるのである。勝家に與へた訓戒の中に、(公家の邑、亂賊の掠むる所となるものは、當に印券により還付すべし)とあるのは、朝廷や公卿の御料所は、還付せしめよと云ふ意味で、かう云ふ點でも、皇室尊崇の志が見えてゐると思ふ。
現代語訳
この本にもある無邊という坊主を殺した点なども、痛快は痛快だが、大人げない。せいぜい顔に烙印でもして追放するくらいでよい。信長の留守に、桑實寺に行楽に行った女中たちを斬ったり、久しぶりに訪ねてきた伯母を、その不義を咎めて、物も言わずに切り殺したり、あまりに殺すことを嗜みすぎている。孟子の言葉を借りるまでもなく、それでは大を成すわけには行かない。天正五、六年に信長に会った安国寺恵瓊が、いまにすっ転んで高ころびにころぶだろうと予言しているが、心ある者の眼には、すでにその兆しが見えていたのであろう。 ただ、勤王の点では、父信秀以来志が深く、秀吉以上である。その点では、家康が最もいけない。信長が天下を取って、皇権ははるかに伸長していたと思われるのである。勝家に与えた訓戒の中に、「公家の邑、乱賊の掠むる所となるものは、当に印券により還付すべし」とあるのは、朝廷や公卿の御料所は返還させよという意味で、こういう点でも、皇室尊崇の志が見えると思う。
解説

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