名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 傾奇の装いと平手の死
○信長倜儻大志あり、少なりし時、豪縱無狀、壯なるに及び俠を好み、士を養ひ、細節に拘はらず勇にして斷多し、常に馬を調し、弓銃を習ひ泅を學べり。又近臣を聚め、竹鎗を以て鬪はしめて曰く、鎗は長きに利ありと言ひ、三間柄、或は三間半の鎗を造くる。此頃信長の形容甚だ奇偉なり、濶袖の衣を著し、半袴、燧袋、其外數多付け茶筅髪に結び、朱鞘の大刀を帶び、其街市を出行するに、或は人の肩に憑り或は餅菓を食ひ、其體甚だ傍若無人なり。遠近相傳へて、信長は無類の大戲氣者と言へり。天文十八年、父信秀卒す。依て信秀の爲めに萬松寺にて法會あり。其時、信長、弟勘十郎信行と共に往く。覩る者甚だ多し。信長燒香に出づるに、長柄の刀脇差を藁繩にて卷きたるを指し袴を著せず。髪は茶筅に結び、位牌の前に出で抹香をくわつと握み佛前へ投掛けて歸れり。覩る者皆信行を譽め、信長を例の戲氣者よと言ひ、取々に評判せり。其中に筑紫の僧あり、信長を見て、此人こそ必ず國郡をも保つべき人なりと賞しける。斯りければ信長の傅平手中務大輔政秀深く之を憂ひ、屢々諫めしかども聴かず。依て二十二年閏正月十三日、遂に自殺す。信長驚愕自ら咎め屛居して出でず。爲めに佛院を政秀の領地志賀村に建て、政秀寺と名つけ、忌日には必ず參詣せり。政秀死後、自ら誓て曰く、吾徒に悔るも、何の益かあらん、當に過を改め行を勵まし、大功を天下に立て、以て前失を償ふべしと。是に於て益々武事を講じ隣國に警備せり。○信長、齋藤山城守秀龍入道道三の女を迎へて妻とす。此頃近國の風聞に、信長は類ひなき戯氣者なり言ければ、秀龍聞て聟入と唱へて、其容子を見んとて、富田の正德寺にて會せんと言ふ。信長忽ち承引して頓て日を定めて富田に至る。秀龍は將士七百餘に、折目高なる袴肩衣を着用させ慇懃に古風なる裝束にて正德寺の御堂の縁に行列を正して並居させ、信長を延き、其前を通らせ其の樣子を見んとす。
新字:○信長倜儻大志あり、少なりし時、豪縦無状、壮なるに及び侠を好み、士を養ひ、細節に拘はらず勇にして断多し、常に馬を調し、弓銃を習ひ泅を学べり。又近臣を聚め、竹鎗を以て闘はしめて曰く、鎗は長きに利ありと言ひ、三間柄、或は三間半の鎗を造くる。此頃信長の形容甚だ奇偉なり、濶袖の衣を著し、半袴、燧袋、其外数多付け茶筅髪に結び、朱鞘の大刀を帯び、其街市を出行するに、或は人の肩に憑り或は餅菓を食ひ、其体甚だ傍若無人なり。遠近相伝へて、信長は無類の大戯気者と言へり。天文十八年、父信秀卒す。依て信秀の為めに万松寺にて法会あり。其時、信長、弟勘十郎信行と共に往く。睹る者甚だ多し。信長焼香に出づるに、長柄の刀脇差を藁縄にて巻きたるを指し袴を著せず。髪は茶筅に結び、位牌の前に出で抹香をくわつと握み仏前へ投掛けて帰れり。睹る者皆信行を誉め、信長を例の戯気者よと言ひ、取々に評判せり。其中に筑紫の僧あり、信長を見て、此人こそ必ず国郡をも保つべき人なりと賞しける。斯りければ信長の傅平手中務大輔政秀深く之を憂ひ、屡々諫めしかども聴かず。依て二十二年閏正月十三日、遂に自殺す。信長驚愕自ら咎め屛居して出でず。為めに仏院を政秀の領地志賀村に建て、政秀寺と名つけ、忌日には必ず参詣せり。政秀死後、自ら誓て曰く、吾徒に悔るも、何の益かあらん、当に過を改め行を励まし、大功を天下に立て、以て前失を償ふべしと。是に於て益々武事を講じ隣国に警備せり。○信長、斎藤山城守秀竜入道道三の女を迎へて妻とす。此頃近国の風聞に、信長は類ひなき戯気者なり言ければ、秀竜聞て婿入と唱へて、其容子を見んとて、富田の正徳寺にて会せんと言ふ。信長忽ち承引して頓て日を定めて富田に至る。秀竜は将士七百余に、折目高なる袴肩衣を着用させ慇懃に古風なる装束にて正徳寺の御堂の縁に行列を正して並居させ、信長を延き、其前を通らせ其の様子を見んとす。
書き下し
○信長倜儻大志あり、少なりし時、豪縱無狀、壯なるに及び俠を好み、士を養ひ、細節に拘はらず勇にして斷多し、常に馬を調し、弓銃を習ひ泅を學べり。又近臣を聚め、竹鎗を以て鬪はしめて曰く、鎗は長きに利ありと言ひ、三間柄、或は三間半の鎗を造くる。此頃信長の形容甚だ奇偉なり、濶袖の衣を著し、半袴、燧袋、其外數多付け茶筅髪に結び、朱鞘の大刀を帶び、其街市を出行するに、或は人の肩に憑り或は餅菓を食ひ、其體甚だ傍若無人なり。遠近相傳へて、信長は無類の大戲氣者と言へり。天文十八年、父信秀卒す。依て信秀の爲めに萬松寺にて法會あり。其時、信長、弟勘十郎信行と共に往く。覩る者甚だ多し。信長燒香に出づるに、長柄の刀脇差を藁繩にて卷きたるを指し袴を著せず。髪は茶筅に結び、位牌の前に出で抹香をくわつと握み佛前へ投掛けて歸れり。覩る者皆信行を譽め、信長を例の戲氣者よと言ひ、取々に評判せり。其中に筑紫の僧あり、信長を見て、此人こそ必ず國郡をも保つべき人なりと賞しける。斯りければ信長の傅平手中務大輔政秀深く之を憂ひ、屢々諫めしかども聴かず。依て二十二年閏正月十三日、遂に自殺す。信長驚愕自ら咎め屛居して出でず。爲めに佛院を政秀の領地志賀村に建て、政秀寺と名つけ、忌日には必ず參詣せり。政秀死後、自ら誓て曰く、吾徒に悔るも、何の益かあらん、當に過を改め行を勵まし、大功を天下に立て、以て前失を償ふべしと。是に於て益々武事を講じ隣國に警備せり。○信長、齋藤山城守秀龍入道道三の女を迎へて妻とす。此頃近國の風聞に、信長は類ひなき戯氣者なり言ければ、秀龍聞て聟入と唱へて、其容子を見んとて、富田の正德寺にて會せんと言ふ。信長忽ち承引して頓て日を定めて富田に至る。秀龍は將士七百餘に、折目高なる袴肩衣を着用させ慇懃に古風なる裝束にて正德寺の御堂の縁に行列を正して並居させ、信長を延き、其前を通らせ其の樣子を見んとす。
現代語訳
信長は才気があって志が大きく、若いころは豪放気ままで定まらず、壮年になるに及んで侠気を好み、士を養い、細かな節目にこだわらず、勇ましく決断が多かった。つねに馬を調教し、弓・鉄砲を習い、水泳を学んだ。また近臣を集め、竹槍で戦わせて言った。「槍は長いのが有利だ」と言って、三間柄、あるいは三間半の槍を造らせた。このころの信長の風体は甚だ奇抜で、広袖の衣を着、半袴をはき、火打ち袋その他多くを付け、茶筅髪に結い、朱鞘の大刀を帯び、町なかを出歩くにも、人の肩にもたれ、あるいは餅や菓子を食べ、その様子はひどく傍若無人であった。遠近の人が伝えて、信長は並ぶもののない大うつけ者だと言った。天文十八年、父信秀が没した。そこで信秀のために万松寺で法会があった。そのとき信長は弟の勘十郎信行とともに行った。見る者は甚だ多かった。信長は焼香に出るのに、長柄の刀・脇差を藁縄で巻いたものを差し、袴をはかなかった。髪は茶筅に結い、位牌の前に出て抹香をくわっと握んで仏前へ投げかけて帰った。見る者は皆信行をほめ、信長を例のうつけ者よと言って、口々に評判した。その中に筑紫の僧がいて、信長を見て、この人こそ必ず国郡をも保つべき人であると賞した。こうなったので、信長の傅役、平手中務大輔政秀は深くこれを憂い、しばしば諫めたが聴かなかった。そこで二十二年閏正月十三日、ついに自殺した。信長は驚愕して自ら咎め、引きこもって出なかった。そのために仏寺を政秀の領地志賀村に建て、政秀寺と名づけ、忌日には必ず参詣した。政秀の死後、自ら誓って言った。「私がいたずらに悔いても、何の益があろうか。まさに過ちを改め行いを励まし、大功を天下に立てて、前の過失を償うべきである」と。ここにおいていよいよ武事を講じ、隣国に警備した。信長は、斎藤山城守秀龍入道道三の娘を迎えて妻とした。このころ近国の風聞に、信長は類のない大うつけ者だと言ったので、秀龍は聞いて、婿入りと称して、その様子を見ようと、富田の正徳寺で会おうと言った。信長はたちまち承引して、やがて日を定めて富田に至った。秀龍は将士七百余人に、折り目高な袴・肩衣を着用させ、丁重に古風な装束で、正徳寺の御堂の縁に行列を正して並び居させ、信長を招き、その前を通らせてその様子を見ようとした。
解説

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