名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 扇に載せた金銭
○兼續人と爲り、長高く姿容美しく、言語清朗なり。嘗て聚樂城にて諸大名並居たる中に、伊達政宗懐中より金錢取出し、人々に見せられしに、其頃金錢の始まりし頃にて、珍しとて、翫はやさる。兼續にも之を見られよとありし時、兼續扇の上に金錢を置て、打返し〱女童の羽根突く樣にして覩しかば、政宗否苦うも候はず、手に取られよと言も終らぬに、兼續、謙信の時より先陣の下知して、麾取り候手に、斯る賤き物執れば汚れ候故、扇に載せて候とて、政宗の方に投げ戻せしかば、政宗大いに赤面せりとぞ。
新字:○兼続人と為り、長高く姿容美しく、言語清朗なり。嘗て聚楽城にて諸大名並居たる中に、伊達政宗懐中より金銭取出し、人々に見せられしに、其頃金銭の始まりし頃にて、珍しとて、翫はやさる。兼続にも之を見られよとありし時、兼続扇の上に金銭を置て、打返し〱女童の羽根突く様にして睹しかば、政宗否苦うも候はず、手に取られよと言も終らぬに、兼続、謙信の時より先陣の下知して、麾取り候手に、斯る賤き物執れば汚れ候故、扇に載せて候とて、政宗の方に投げ戻せしかば、政宗大いに赤面せりとぞ。
書き下し
○兼續人と爲り、長高く姿容美しく、言語清朗なり。嘗て聚樂城にて諸大名並居たる中に、伊達政宗懐中より金錢取出し、人々に見せられしに、其頃金錢の始まりし頃にて、珍しとて、翫はやさる。兼續にも之を見られよとありし時、兼續扇の上に金錢を置て、打返し〱女童の羽根突く樣にして覩しかば、政宗否苦うも候はず、手に取られよと言も終らぬに、兼續、謙信の時より先陣の下知して、麾取り候手に、斯る賤き物執れば汚れ候故、扇に載せて候とて、政宗の方に投げ戻せしかば、政宗大いに赤面せりとぞ。
現代語訳
兼続は人となり、背が高く姿かたちが美しく、言葉づかいは清らかで明朗であった。かつて聚楽城で諸大名が居並ぶなか、伊達政宗が懐から金銭を取り出して人々に見せたところ、そのころは金銭が使われ始めた頃で、珍しいといってもてはやされた。兼続にもご覧なさいと言われたとき、兼続は扇の上に金銭を置き、繰り返し打ち返して、女子供が羽根をつくようにして眺めたので、政宗が、いやいや汚くはございません、手に取られよ、と言い終わらないうちに、兼続は、謙信の時から先陣の指図をし、采配を取ってきた手に、このような卑しい物を持てば汚れますので、扇に載せたのです、と言って、政宗の方へ投げ戻したので、政宗は大いに赤面したという。
解説

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