名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 投げ輪の測量と下役の目
賤吏某の子、初め樋口氏を冒し、後又直江氏を冒す。從四位下に叙し、山城守に任す。元和五年十二月十九日卒、歳六十。 ○武田晴信、上杉へ岡田堅桃齋を使者に遣はしゝことあり。輝虎兼ねて堅桃齋が和歌に心掛厚きことを聞き居たりければ、越後の名所、越の長濱を見せんとて、輝虎同道して濱見物に出たり。春日山より出立て盡日海邊に逍遙し、夜深に城に歸りけり。堅桃齋、其往還の道すがら召連れし童に投輪を投げさせて戯と爲し、濱にても、之を投させて興に入りたりしが、其曉に至り、燧袋より小き石の豆の如くなるを出し、之を算へ、又童の力の限り投させて、其投輪の所までの長さを量り、何丈と定め、又石の數と比較して、城より濱まで何千何百丈、濱の長さ若干丈と知り、又投輪を高く投るとて、糸を付けたりしを見て、高さを量り、屏の長短より始め、堀の間數まで具に之れを量り記して、晴信へ土產にせしとぞ。其後晴信より輝虎へ、越の長濱の丈尺を問ひたりし時、輝虎其地の代官に間地を打てとありしかば、代官の下司之を聞き、是は何の御用ぞや、武田抔よりの所望にはあらざるか、若し左樣のことならば間地を打ことも無用たるべし。先日來りし、歌讀めが投輪を投させて、疾く知りたるならんものをと言ひしかば、輝虎も成程岡田めが童の投たる物こそ怪しかりけれ。然る樣のことゝは知らざりし、悔しさよと苦笑し、濱は潮の滿干定まらねば、丈尺極め難しと返答ありて、後代官の下司を取立て樋口與惣左衞門が養子と爲し、與六兼續と名乘らせ、小姓とせられけり。
新字:賤吏某の子、初め樋口氏を冒し、後又直江氏を冒す。従四位下に叙し、山城守に任す。元和五年十二月十九日卒、歳六十。 ○武田晴信、上杉へ岡田堅桃斎を使者に遣はしゝことあり。輝虎兼ねて堅桃斎が和歌に心掛厚きことを聞き居たりければ、越後の名所、越の長浜を見せんとて、輝虎同道して浜見物に出たり。春日山より出立て尽日海辺に逍遥し、夜深に城に帰りけり。堅桃斎、其往還の道すがら召連れし童に投輪を投げさせて戯と為し、浜にても、之を投させて興に入りたりしが、其暁に至り、燧袋より小き石の豆の如くなるを出し、之を算へ、又童の力の限り投させて、其投輪の所までの長さを量り、何丈と定め、又石の数と比較して、城より浜まで何千何百丈、浜の長さ若干丈と知り、又投輪を高く投るとて、糸を付けたりしを見て、高さを量り、屏の長短より始め、堀の間数まで具に之れを量り記して、晴信へ土産にせしとぞ。其後晴信より輝虎へ、越の長浜の丈尺を問ひたりし時、輝虎其地の代官に間地を打てとありしかば、代官の下司之を聞き、是は何の御用ぞや、武田抔よりの所望にはあらざるか、若し左様のことならば間地を打ことも無用たるべし。先日来りし、歌読めが投輪を投させて、疾く知りたるならんものをと言ひしかば、輝虎も成程岡田めが童の投たる物こそ怪しかりけれ。然る様のことゝは知らざりし、悔しさよと苦笑し、浜は潮の満干定まらねば、丈尺極め難しと返答ありて、後代官の下司を取立て樋口与惣左衛門が養子と為し、与六兼続と名乗らせ、小姓とせられけり。
書き下し
賤吏某の子、初め樋口氏を冒し、後又直江氏を冒す。從四位下に叙し、山城守に任す。元和五年十二月十九日卒、歳六十。 ○武田晴信、上杉へ岡田堅桃齋を使者に遣はしゝことあり。輝虎兼ねて堅桃齋が和歌に心掛厚きことを聞き居たりければ、越後の名所、越の長濱を見せんとて、輝虎同道して濱見物に出たり。春日山より出立て盡日海邊に逍遙し、夜深に城に歸りけり。堅桃齋、其往還の道すがら召連れし童に投輪を投げさせて戯と爲し、濱にても、之を投させて興に入りたりしが、其曉に至り、燧袋より小き石の豆の如くなるを出し、之を算へ、又童の力の限り投させて、其投輪の所までの長さを量り、何丈と定め、又石の數と比較して、城より濱まで何千何百丈、濱の長さ若干丈と知り、又投輪を高く投るとて、糸を付けたりしを見て、高さを量り、屏の長短より始め、堀の間數まで具に之れを量り記して、晴信へ土產にせしとぞ。其後晴信より輝虎へ、越の長濱の丈尺を問ひたりし時、輝虎其地の代官に間地を打てとありしかば、代官の下司之を聞き、是は何の御用ぞや、武田抔よりの所望にはあらざるか、若し左樣のことならば間地を打ことも無用たるべし。先日來りし、歌讀めが投輪を投させて、疾く知りたるならんものをと言ひしかば、輝虎も成程岡田めが童の投たる物こそ怪しかりけれ。然る樣のことゝは知らざりし、悔しさよと苦笑し、濱は潮の滿干定まらねば、丈尺極め難しと返答ありて、後代官の下司を取立て樋口與惣左衞門が養子と爲し、與六兼續と名乘らせ、小姓とせられけり。
現代語訳
身分の低い役人の子。初め樋口氏を名のり、のち直江氏を継いだ。従四位下に叙され、山城守に任じられた。元和五年十二月十九日に没し、享年六十。 武田晴信が上杉家へ岡田堅桃斎を使者に遣わしたことがある。輝虎はかねて堅桃斎が和歌に熱心だと聞いていたので、越後の名所、越の長浜を見せようと、同行して浜見物に出た。春日山を出て一日中海辺を歩き、夜更けに城へ帰った。堅桃斎は、往復の道すがら連れていた子供に投げ輪を投げさせて遊びとし、浜でもそれを投げさせて興じていたが、その明け方になると、火打ち袋から豆のような小さな石を取り出して数え、また子供に力いっぱい投げさせて、投げ輪の届いた所までの長さを測って何丈と定め、石の数と比べて、城から浜まで何千何百丈、浜の長さは何丈と知った。また投げ輪を高く投げるといって糸を付けてあったのを使い、高さを測り、塀の長短から始めて堀の間数まで詳しく測って書き記し、晴信への土産にしたという。その後、晴信から輝虎へ、越の長浜の寸法を問い合わせてきたとき、輝虎はその土地の代官に間数を打って測れと命じた。代官の下役がこれを聞いて、これは何の御用ですか、武田などからの所望ではありませんか。もしそうなら測るのは無用です。先日来た歌詠みめが投げ輪を投げさせて、とうに知っているでしょうに、と言ったので、輝虎も、なるほど岡田めが子供に投げさせたものは怪しいと思っていたが、そういうことだとは知らなかった、悔しいことだと苦笑し、浜は潮の満ち干で定まらず、寸法は決めがたいと返答した。のちにその代官の下役を取り立てて樋口与惣左衛門の養子とし、与六兼続と名のらせ、小姓にした。
解説

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