名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 一寸の先を譲らず
○此役、景勝進み城を攻む。久世三四郎廣宜乘り來り、景勝に向ひ、俄に城を攻めば死傷多からん、後陣の堀尾山城守忠晴と入り替はられよと仰候ぞと言ふ。景勝聞きもあへず、弓箭の先を爭ふ時、一寸益しと言ふことあり、今朝より烈しく軍して取敷たる所を、人に譲りて退くことや候とて、少しも動かず。丹羽重長、景勝の陣に行て見れば、景勝床机に倚りて城をはつたと睨み、物具もせずして靑竹を杖に突き、左右に軍兵三百計り、槍を橫たへ跪きて、紺色に日の丸の旗毘の文字の旗、二本に淺黃の扇の馬印押立、靜まり返りて長重を見向もせず、武者行儀の正きこと中々詞にも述べられず。士卒景勝を恐るゝこと敵よりも甚だし。長重も勇將なるが、後に人に語りて景勝を讚美せり。 ○景勝人となり、豪邁にして、膽大なり。其戰陣に臨むや、前隊旣に戈を交へ、矢丸雨の如く下だり、呼聲天地に震ふ時も、身尙ほ幕中に臥し、鼾聲雷の如し。又京師に朝するの時、其行列數十百人寂として咳聲をも聞かず、唯人馬の行聲肅々然たるを聞くのみとぞ。嘗て富士川を渡りし時、人多くして船小なり、中流にして殆んど沈まんとす。景勝大に怒り、舟頭に立ち、鞭を擧て一揮しければ、衆皆躍り水に入り、游で、而して涉れり。之に依て、船乃ち岸に達することを得たり。
新字:○此役、景勝進み城を攻む。久世三四郎広宜乗り来り、景勝に向ひ、俄に城を攻めば死傷多からん、後陣の堀尾山城守忠晴と入り替はられよと仰候ぞと言ふ。景勝聞きもあへず、弓箭の先を争ふ時、一寸益しと言ふことあり、今朝より烈しく軍して取敷たる所を、人に譲りて退くことや候とて、少しも動かず。丹羽重長、景勝の陣に行て見れば、景勝床机に倚りて城をはつたと睨み、物具もせずして青竹を杖に突き、左右に軍兵三百計り、槍を横たへ跪きて、紺色に日の丸の旗毘の文字の旗、二本に浅黄の扇の馬印押立、静まり返りて長重を見向もせず、武者行儀の正きこと中々詞にも述べられず。士卒景勝を恐るゝこと敵よりも甚だし。長重も勇将なるが、後に人に語りて景勝を讃美せり。 ○景勝人となり、豪邁にして、胆大なり。其戦陣に臨むや、前隊既に戈を交へ、矢丸雨の如く下だり、呼声天地に震ふ時も、身尚ほ幕中に臥し、鼾声雷の如し。又京師に朝するの時、其行列数十百人寂として咳声をも聞かず、唯人馬の行声粛々然たるを聞くのみとぞ。嘗て富士川を渡りし時、人多くして船小なり、中流にして殆んど沈まんとす。景勝大に怒り、舟頭に立ち、鞭を挙て一揮しければ、衆皆躍り水に入り、游で、而して渉れり。之に依て、船乃ち岸に達することを得たり。
書き下し
○此役、景勝進み城を攻む。久世三四郎廣宜乘り來り、景勝に向ひ、俄に城を攻めば死傷多からん、後陣の堀尾山城守忠晴と入り替はられよと仰候ぞと言ふ。景勝聞きもあへず、弓箭の先を爭ふ時、一寸益しと言ふことあり、今朝より烈しく軍して取敷たる所を、人に譲りて退くことや候とて、少しも動かず。丹羽重長、景勝の陣に行て見れば、景勝床机に倚りて城をはつたと睨み、物具もせずして靑竹を杖に突き、左右に軍兵三百計り、槍を橫たへ跪きて、紺色に日の丸の旗毘の文字の旗、二本に淺黃の扇の馬印押立、靜まり返りて長重を見向もせず、武者行儀の正きこと中々詞にも述べられず。士卒景勝を恐るゝこと敵よりも甚だし。長重も勇將なるが、後に人に語りて景勝を讚美せり。 ○景勝人となり、豪邁にして、膽大なり。其戰陣に臨むや、前隊旣に戈を交へ、矢丸雨の如く下だり、呼聲天地に震ふ時も、身尙ほ幕中に臥し、鼾聲雷の如し。又京師に朝するの時、其行列數十百人寂として咳聲をも聞かず、唯人馬の行聲肅々然たるを聞くのみとぞ。嘗て富士川を渡りし時、人多くして船小なり、中流にして殆んど沈まんとす。景勝大に怒り、舟頭に立ち、鞭を擧て一揮しければ、衆皆躍り水に入り、游で、而して涉れり。之に依て、船乃ち岸に達することを得たり。
現代語訳
○この戦いで、景勝は進んで城を攻めた。久世三四郎広宜が馬で乗って来て、景勝に向かい、にわかに城を攻めれば死傷が多いでしょう、後陣の堀尾山城守忠晴と入れ替わられよとの仰せですと言った。景勝は聞きもあえず、弓矢の先を争う時には、一寸でも勝るということがある。今朝から激しく戦って取り敷いたところを、人に譲って退くことがあろうかと言って、少しも動かなかった。丹羽重長が、景勝の陣に行って見ると、景勝は床几に腰掛けて城をはったと睨み、武具も着けず、青竹を杖に突き、左右に軍兵三百ばかり、槍を横たえて跪き、紺色に日の丸の旗と毘の文字の旗、二本に浅黄の扇の馬印を押し立て、静まり返って、長重を見向きもしなかった。武者の行儀が正しいことは、なかなか言葉にも述べられない。士卒が景勝を恐れることは、敵よりもはなはだしかった。長重も勇将であったが、後に人に語って景勝を讃美した。 ○景勝は人となり、豪邁で、胆が大きかった。その戦陣に臨む時、前隊がすでに戈を交え、矢や弾丸が雨のように降り、呼び声が天地に震う時も、身はなお幕のうちに臥し、いびきは雷のようであった。また京師に朝する時、その行列数十百人が寂として咳の声も聞こえず、ただ人馬の行く音が粛々と聞こえるだけだったという。かつて富士川を渡った時、人が多く船が小さく、川の中ほどでほとんど沈もうとした。景勝は大いに怒り、船頭に立って、鞭を挙げて一振りすると、人々は皆躍って水に入り、泳いで渡った。これによって、船はすなわち岸に達することができた。
解説

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