名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 供の少ない秀吉を迎える
須賀修理亮が許に使立てゝ、上杉殿へ、秀吉の使として、木村彌一右衞門是まで參りたり、須賀殿に參會して申べきこと候とぞ言はせける。須賀顧て商人の家を、彼が旅館にして出向ふ。秀吉修理亮に對面し、我は是羽柴筑前守秀吉なり、景勝に見參し申べきことありて、來りたり、案内者乞て、春日山に赴向ふと思ふは、如何にとありければ、須賀不肖には侍れども、某斯くて候へば、仰られんことあらば、承はりてこそ、景勝には申傳ふべけれ、容易く通し申さんこと叶ふ間敷と言ふ。秀吉、去らば早馬參らせて、景勝に斯くと申せ、秀吉が言はんこと、汝が聞べき所にあらずと言はれければ、承はりぬと申て秀吉をば城中に入れ、様々に饗應しける。此時景勝は治長が伯父刑部左衞門尉が籠りたる新潟の城攻んとて、蒲原郡に向ひしが、秀吉越中に攻入ると聞て、羽柴が起請を書きて、我と好みを結ばんと言ふことも、亂れたる世の人心計り難しとて、其勢八千六百にて越後、越中の境なる糸魚川の城に陣したり。落水の城よりは程近ければ、須賀飛脚立てゝ、此由を告げ、秀吉討たせ給はんには、御勢賜はるまでも候はず、某討て參らせんとぞ申ける。景勝聞て、天下の權を司る身が戰國の中にして、多くの難所を越て來れるは、一つは去年の誓に違はじと、景勝と好みを結ばんが爲め、一つは景勝が鄙劣の振舞すまじきを賴みてこそ、來るらめ、夫を彼を暗々と討んことは景勝が年比正く取りたる弓箭の名を汚さんず、いで〳〵景勝參會して、彼が望みに任せ親くなるか、去らずば先づ此度は彼を返し、重ねて軍起してこそ、勝負をば決すべけれとて、直江山城守兼繼、藤田能登守信吉、泉澤河内守、安田筑前守を始めとして士合はせて十二騎、歩武者六十餘人を引具し、其日午の刻計りに落水の城に至て、秀吉に對面す。式代事終て、秀吉の方には、石田、景勝の方には直江計り傍に在て、密に事を議すること二時餘り、秀吉落水の城を立ち、富山の城に歸りけり。
新字:須賀修理亮が許に使立てゝ、上杉殿へ、秀吉の使として、木村弥一右衛門是まで参りたり、須賀殿に参会して申べきこと候とぞ言はせける。須賀顧て商人の家を、彼が旅館にして出向ふ。秀吉修理亮に対面し、我は是羽柴筑前守秀吉なり、景勝に見参し申べきことありて、来りたり、案内者乞て、春日山に赴向ふと思ふは、如何にとありければ、須賀不肖には侍れども、某斯くて候へば、仰られんことあらば、承はりてこそ、景勝には申伝ふべけれ、容易く通し申さんこと叶ふ間敷と言ふ。秀吉、去らば早馬参らせて、景勝に斯くと申せ、秀吉が言はんこと、汝が聞べき所にあらずと言はれければ、承はりぬと申て秀吉をば城中に入れ、様々に饗応しける。此時景勝は治長が伯父刑部左衛門尉が籠りたる新潟の城攻んとて、蒲原郡に向ひしが、秀吉越中に攻入ると聞て、羽柴が起請を書きて、我と好みを結ばんと言ふことも、乱れたる世の人心計り難しとて、其勢八千六百にて越後、越中の境なる糸魚川の城に陣したり。落水の城よりは程近ければ、須賀飛脚立てゝ、此由を告げ、秀吉討たせ給はんには、御勢賜はるまでも候はず、某討て参らせんとぞ申ける。景勝聞て、天下の権を司る身が戦国の中にして、多くの難所を越て来れるは、一つは去年の誓に違はじと、景勝と好みを結ばんが為め、一つは景勝が鄙劣の振舞すまじきを頼みてこそ、来るらめ、夫を彼を暗々と討んことは景勝が年比正く取りたる弓箭の名を汚さんず、いで〳〵景勝参会して、彼が望みに任せ親くなるか、去らずば先づ此度は彼を返し、重ねて軍起してこそ、勝負をば決すべけれとて、直江山城守兼継、藤田能登守信吉、泉沢河内守、安田筑前守を始めとして士合はせて十二騎、歩武者六十余人を引具し、其日午の刻計りに落水の城に至て、秀吉に対面す。式代事終て、秀吉の方には、石田、景勝の方には直江計り傍に在て、密に事を議すること二時余り、秀吉落水の城を立ち、富山の城に帰りけり。
書き下し
須賀修理亮が許に使立てゝ、上杉殿へ、秀吉の使として、木村彌一右衞門是まで參りたり、須賀殿に參會して申べきこと候とぞ言はせける。須賀顧て商人の家を、彼が旅館にして出向ふ。秀吉修理亮に對面し、我は是羽柴筑前守秀吉なり、景勝に見參し申べきことありて、來りたり、案内者乞て、春日山に赴向ふと思ふは、如何にとありければ、須賀不肖には侍れども、某斯くて候へば、仰られんことあらば、承はりてこそ、景勝には申傳ふべけれ、容易く通し申さんこと叶ふ間敷と言ふ。秀吉、去らば早馬參らせて、景勝に斯くと申せ、秀吉が言はんこと、汝が聞べき所にあらずと言はれければ、承はりぬと申て秀吉をば城中に入れ、様々に饗應しける。此時景勝は治長が伯父刑部左衞門尉が籠りたる新潟の城攻んとて、蒲原郡に向ひしが、秀吉越中に攻入ると聞て、羽柴が起請を書きて、我と好みを結ばんと言ふことも、亂れたる世の人心計り難しとて、其勢八千六百にて越後、越中の境なる糸魚川の城に陣したり。落水の城よりは程近ければ、須賀飛脚立てゝ、此由を告げ、秀吉討たせ給はんには、御勢賜はるまでも候はず、某討て參らせんとぞ申ける。景勝聞て、天下の權を司る身が戰國の中にして、多くの難所を越て來れるは、一つは去年の誓に違はじと、景勝と好みを結ばんが爲め、一つは景勝が鄙劣の振舞すまじきを賴みてこそ、來るらめ、夫を彼を暗々と討んことは景勝が年比正く取りたる弓箭の名を汚さんず、いで〳〵景勝參會して、彼が望みに任せ親くなるか、去らずば先づ此度は彼を返し、重ねて軍起してこそ、勝負をば決すべけれとて、直江山城守兼繼、藤田能登守信吉、泉澤河内守、安田筑前守を始めとして士合はせて十二騎、歩武者六十餘人を引具し、其日午の刻計りに落水の城に至て、秀吉に對面す。式代事終て、秀吉の方には、石田、景勝の方には直江計り傍に在て、密に事を議すること二時餘り、秀吉落水の城を立ち、富山の城に歸りけり。
現代語訳
須賀修理亮のもとに使いを立てて、上杉殿へ、秀吉の使いとして、木村弥一右衛門がここまで参りました、須賀殿にお会いして申すことがありますと言わせた。須賀は振り返って、商人の家を彼の旅館にして出向いた。秀吉は修理亮に対面し、私は羽柴筑前守秀吉である、景勝に会って申すべきことがあって来た、案内者を乞うて春日山に赴こうと思うが、どうであるかと言ったところ、須賀は、不肖ではございますが、私がこうして控えておりますので、仰せになることがあれば承ってこそ景勝に申し伝えましょう、容易くお通し申すことはできませんと言った。秀吉は、それなら早馬を参らせて景勝にこうと申せ、秀吉が言おうとすることは、お前が聞くべきことではないと言われたので、承りましたと言って秀吉を城中に入れ、さまざまにもてなした。この時、景勝は治長の伯父の刑部左衛門尉が籠もっている新潟の城を攻めようと、蒲原郡に向かっていたが、秀吉が越中に攻め入ると聞いて、羽柴が起請文を書いて、私と好みを結ぼうというのも、乱れた世の人の心は計りがたいと思い、その勢八千六百で越後と越中の境にある糸魚川の城に陣をした。落水の城からは程近いので、須賀は飛脚を立ててこのことを告げ、秀吉をお討ちになるなら、御勢を賜るまでもございません、私が討って差し上げましょうと申した。景勝は聞いて言った。天下の権を司る身が、戦国のなかで多くの難所を越えて来たのは、一つは去年の誓いに違うまいと、景勝と好みを結ぶためであり、一つは景勝が卑劣な振る舞いをするまいと頼んでこそ来たのであろう。それを暗々と討つことは、景勝が年来取ってきた弓矢の名を汚すことになる。さあさあ、景勝が参会して、彼の望みに任せて親しくなるか、そうでなければ、まず今回は彼を帰して、重ねて軍を起こして勝負を決しよう、と。直江山城守兼続、藤田能登守信吉、泉沢河内守、安田筑前守をはじめとして、侍合わせて十二騎、歩武者六十余人を引き連れ、その日の午の刻ごろに落水の城に至り、秀吉に対面した。式の儀礼が終わって、秀吉の方には石田、景勝の方には直江だけが傍らにあって、密かに事を議すること二時余り、秀吉は落水の城を立って、富山の城に帰った。
解説

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