名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 秀吉の誘いと越中攻め
○羽柴筑前守秀吉、越後妙樂寺の僧に、木村彌一右衞門尉秀俊を副使として音信を通じ、無事のことを申送る。景勝思ふは、輝虎切從へし國々未だ五分一も手に屬せざる所に、當時天下に威を奪ふ秀吉と無事に成り、其後右の國々を切取り候とも、世間の唱に、景勝鉾先と言はず、秀吉の太刀影を以て斯くの如くと批判之あるべくとて、再三中越けれども、其儀に應ぜず。然る所、十二年九月、秀吉又秀俊を使として長く兩家の好みを結ぶべき由の起請文を書きて贈る。又越中の佐々成政が、秀吉の旨に從はず、秀吉彼を討ん爲め、頓て彼國に向はんとす。成政如何に申すとも、景勝助け給はずんば秀吉が幸、何事か之に勝るべきとぞ申越しける。景勝秀俊に向つて、去りし年、景勝、成政が爲めに魚津の城を落さる、當時は國中の亂を鎭めんとて、未だ彼と戰ふに遑あらず、又彼國は我累代の所領なれば、景勝必ず成政を亡して取らんとす、然るに、今秀吉の使を承はりて後、彼國を討んこと、秀吉と國を爭ふに似たり。又景勝が一度も彼と戰はで秀吉の望に任せんこと、言甲斐なし、所詮此度彼國に向て、越後の武者の弓箭の執り樣を御身の見參に入れ、都への餞別にすべしと、十月二十三日越後を立て、越中宮崎の城に押寄せて、一時に城を攻落し、富山の城の此方なる滑川の邊に攻入り此處彼處放火して引返す。去れども成政身構計りにて、中々出ることもならず、景勝秀俊を召て、御身見たらん樣、秀吉に語りて、景勝此國討從へんこと最易し、去ながら秀吉の望みに任せて、物をば譲り畢はりぬと申せ、又兩家の好みを結ばんことは追て返答には及ぶべけれとて、使をば歸したり。明れば十三年八月、秀吉越中に發向し、成政を攻降し、夫より石田三成、木村秀俊只二騎を具して雜兵僅か三十八人、越後落水の城下に來て、此城を守り居る。
新字:○羽柴筑前守秀吉、越後妙楽寺の僧に、木村弥一右衛門尉秀俊を副使として音信を通じ、無事のことを申送る。景勝思ふは、輝虎切従へし国々未だ五分一も手に属せざる所に、当時天下に威を奪ふ秀吉と無事に成り、其後右の国々を切取り候とも、世間の唱に、景勝鉾先と言はず、秀吉の太刀影を以て斯くの如くと批判之あるべくとて、再三中越けれども、其儀に応ぜず。然る所、十二年九月、秀吉又秀俊を使として長く両家の好みを結ぶべき由の起請文を書きて贈る。又越中の佐々成政が、秀吉の旨に従はず、秀吉彼を討ん為め、頓て彼国に向はんとす。成政如何に申すとも、景勝助け給はずんば秀吉が幸、何事か之に勝るべきとぞ申越しける。景勝秀俊に向つて、去りし年、景勝、成政が為めに魚津の城を落さる、当時は国中の乱を鎮めんとて、未だ彼と戦ふに遑あらず、又彼国は我累代の所領なれば、景勝必ず成政を亡して取らんとす、然るに、今秀吉の使を承はりて後、彼国を討んこと、秀吉と国を争ふに似たり。又景勝が一度も彼と戦はで秀吉の望に任せんこと、言甲斐なし、所詮此度彼国に向て、越後の武者の弓箭の執り様を御身の見参に入れ、都への餞別にすべしと、十月二十三日越後を立て、越中宮崎の城に押寄せて、一時に城を攻落し、富山の城の此方なる滑川の辺に攻入り此処彼処放火して引返す。去れども成政身構計りにて、中々出ることもならず、景勝秀俊を召て、御身見たらん様、秀吉に語りて、景勝此国討従へんこと最易し、去ながら秀吉の望みに任せて、物をば譲り畢はりぬと申せ、又両家の好みを結ばんことは追て返答には及ぶべけれとて、使をば帰したり。明れば十三年八月、秀吉越中に発向し、成政を攻降し、夫より石田三成、木村秀俊只二騎を具して雑兵僅か三十八人、越後落水の城下に来て、此城を守り居る。
書き下し
○羽柴筑前守秀吉、越後妙樂寺の僧に、木村彌一右衞門尉秀俊を副使として音信を通じ、無事のことを申送る。景勝思ふは、輝虎切從へし國々未だ五分一も手に屬せざる所に、當時天下に威を奪ふ秀吉と無事に成り、其後右の國々を切取り候とも、世間の唱に、景勝鉾先と言はず、秀吉の太刀影を以て斯くの如くと批判之あるべくとて、再三中越けれども、其儀に應ぜず。然る所、十二年九月、秀吉又秀俊を使として長く兩家の好みを結ぶべき由の起請文を書きて贈る。又越中の佐々成政が、秀吉の旨に從はず、秀吉彼を討ん爲め、頓て彼國に向はんとす。成政如何に申すとも、景勝助け給はずんば秀吉が幸、何事か之に勝るべきとぞ申越しける。景勝秀俊に向つて、去りし年、景勝、成政が爲めに魚津の城を落さる、當時は國中の亂を鎭めんとて、未だ彼と戰ふに遑あらず、又彼國は我累代の所領なれば、景勝必ず成政を亡して取らんとす、然るに、今秀吉の使を承はりて後、彼國を討んこと、秀吉と國を爭ふに似たり。又景勝が一度も彼と戰はで秀吉の望に任せんこと、言甲斐なし、所詮此度彼國に向て、越後の武者の弓箭の執り樣を御身の見參に入れ、都への餞別にすべしと、十月二十三日越後を立て、越中宮崎の城に押寄せて、一時に城を攻落し、富山の城の此方なる滑川の邊に攻入り此處彼處放火して引返す。去れども成政身構計りにて、中々出ることもならず、景勝秀俊を召て、御身見たらん樣、秀吉に語りて、景勝此國討從へんこと最易し、去ながら秀吉の望みに任せて、物をば譲り畢はりぬと申せ、又兩家の好みを結ばんことは追て返答には及ぶべけれとて、使をば歸したり。明れば十三年八月、秀吉越中に發向し、成政を攻降し、夫より石田三成、木村秀俊只二騎を具して雜兵僅か三十八人、越後落水の城下に來て、此城を守り居る。
現代語訳
○羽柴筑前守秀吉は、越後の妙楽寺の僧に、木村弥一右衛門尉秀俊を副使として添えて音信を通じ、和睦のことを申し送った。景勝は、輝虎が従えた国々がまだ五分の一も手に入っていないところに、現在天下に威を振るう秀吉と和睦し、その後右の国々を切り取ったとしても、世間では、景勝の鉾先ではなく、秀吉の太刀の影によってこのようにしたのだと批判するだろうと思い、再三申し越したけれども、その儀には応じなかった。ところが十二年九月、秀吉はまた秀俊を使者として、長く両家の好みを結ぶべき由の起請文を書いて贈った。また越中の佐々成政が秀吉の意向に従わず、秀吉は彼を討つため、まもなくその国に向かおうとした。成政がどのように申そうとも、景勝がお助けにならなければ秀吉の幸いである、何事かこれに勝るものがあろうかと申し越した。景勝は秀俊に向かって言った。去る年、私は成政に魚津の城を落とされた。当時は国中の乱を鎮めようとして、まだ彼と戦う暇がなかった。またあの国は私の累代の所領であるから、私は必ず成政を滅ぼして取ろうとする。しかるに今、秀吉の使いを承ってから後、あの国を討つとなれば、秀吉と国を争うに似ている。また私が一度もあれと戦わずに秀吉の望みに任せるのも、言い甲斐がない。とにかくこの度あの国に向かって、越後の武者の弓矢の取り様を御身のご覧に入れ、都への餞別としよう、と。十月二十三日に越後を立って、越中の宮崎城に押し寄せ、一時に城を攻め落とし、富山の城のこちらにある滑川のあたりに攻め入り、あちこちに放火して引き返した。しかし成政は身構えるばかりで、なかなか出ることもできなかった。景勝は秀俊を召して言った。御身が見たとおりを秀吉に語って伝えよ。景勝がこの国を討ち従えることは、きわめて容易い。しかしながら秀吉の望みに任せて、物を譲り終えたと申せ。また両家の好みを結ぶことは、追って返答するまでもないだろう、と言って、使いを帰した。明けて十三年八月、秀吉は越中に出向き、成政を攻め降し、それから石田三成と木村秀俊のただ二騎を連れ、雑兵わずか三十八人で、越後の落水の城下に来て、この城を守っている
解説

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