名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 父の罪と十歳の誓い
長尾越前守政景の子、叔父輝虎の嗣と爲り、從三位に敘し、權中納言に任ず。米澤城に住す。元和九年三月二十日薨、年六十九。 ○輝虎、政景を殺せし時、景勝未だ喜平治と云て、十歲なりけるを、直江大和守實綱、甘糟近江守景持兩人に預け、十五歲までは政景の本領を兩人にて支配すべし、喜平治人となるべき器量あらば、十六歲より相違なく返し興ふべしとなり。喜平治人となり物柔らかにして、手ぬるきかと見れば、左はなく大形のことは堪忍し、怒る時は恐しく、又痛く不仁なるかと思へば、慈悲ありて、心を配り忝く存ずる樣に人を使ひ又文武の道に心を入れ、老功の者の物語を聞き、理非の吟味を爲せり。父政景の罪蒙りて身を失ひしは、天の罰なり、輝虎に少しも恨みなしとて、毘沙門、八幡將軍、地藏等の日は、前日より別火垢離し、穀鹽まで斷て行を爲せり。實綱、景持何の爲めに斯くの如くせらるゝと問へば、喜平治曰く、政景の子なれば御成敗あるべき所、一命を助け置かるゝのみならず、行々某が心立てに依つて、植田の本領をも賜はる樣に承はりたり。此の御恩何を以てか報ぜんや、一生の内召出されなば、身命を拋ち忠勤を勵み、父不忠の罪を償ひ、吾が忠誠を以て亡靈の迷ひを霽し度との立願なり。又父の囘向には、毎日千篇の心經懈らずと。兩人之を聞き、具に輝虎へ披露し、兒角尋常の人に替はりたる所多ければ、召出され候て、其行跡を御覽候へ、別條之あるべからずと申す。輝虎其方共達て左樣に存ずる上ならば、何事かあるべきと言て、召出し、側奉公申付けられけり。時に年十三。
新字:長尾越前守政景の子、叔父輝虎の嗣と為り、従三位に敘し、権中納言に任ず。米沢城に住す。元和九年三月二十日薨、年六十九。 ○輝虎、政景を殺せし時、景勝未だ喜平治と云て、十歳なりけるを、直江大和守実綱、甘糟近江守景持両人に預け、十五歳までは政景の本領を両人にて支配すべし、喜平治人となるべき器量あらば、十六歳より相違なく返し興ふべしとなり。喜平治人となり物柔らかにして、手ぬるきかと見れば、左はなく大形のことは堪忍し、怒る時は恐しく、又痛く不仁なるかと思へば、慈悲ありて、心を配り忝く存ずる様に人を使ひ又文武の道に心を入れ、老功の者の物語を聞き、理非の吟味を為せり。父政景の罪蒙りて身を失ひしは、天の罰なり、輝虎に少しも恨みなしとて、毘沙門、八幡将軍、地蔵等の日は、前日より別火垢離し、穀塩まで断て行を為せり。実綱、景持何の為めに斯くの如くせらるゝと問へば、喜平治曰く、政景の子なれば御成敗あるべき所、一命を助け置かるゝのみならず、行々某が心立てに依つて、植田の本領をも賜はる様に承はりたり。此の御恩何を以てか報ぜんや、一生の内召出されなば、身命を抛ち忠勤を励み、父不忠の罪を償ひ、吾が忠誠を以て亡霊の迷ひを霽し度との立願なり。又父の囘向には、毎日千篇の心経懈らずと。両人之を聞き、具に輝虎へ披露し、児角尋常の人に替はりたる所多ければ、召出され候て、其行跡を御覧候へ、別条之あるべからずと申す。輝虎其方共達て左様に存ずる上ならば、何事かあるべきと言て、召出し、側奉公申付けられけり。時に年十三。
書き下し
長尾越前守政景の子、叔父輝虎の嗣と爲り、從三位に敘し、權中納言に任ず。米澤城に住す。元和九年三月二十日薨、年六十九。 ○輝虎、政景を殺せし時、景勝未だ喜平治と云て、十歲なりけるを、直江大和守實綱、甘糟近江守景持兩人に預け、十五歲までは政景の本領を兩人にて支配すべし、喜平治人となるべき器量あらば、十六歲より相違なく返し興ふべしとなり。喜平治人となり物柔らかにして、手ぬるきかと見れば、左はなく大形のことは堪忍し、怒る時は恐しく、又痛く不仁なるかと思へば、慈悲ありて、心を配り忝く存ずる樣に人を使ひ又文武の道に心を入れ、老功の者の物語を聞き、理非の吟味を爲せり。父政景の罪蒙りて身を失ひしは、天の罰なり、輝虎に少しも恨みなしとて、毘沙門、八幡將軍、地藏等の日は、前日より別火垢離し、穀鹽まで斷て行を爲せり。實綱、景持何の爲めに斯くの如くせらるゝと問へば、喜平治曰く、政景の子なれば御成敗あるべき所、一命を助け置かるゝのみならず、行々某が心立てに依つて、植田の本領をも賜はる樣に承はりたり。此の御恩何を以てか報ぜんや、一生の内召出されなば、身命を拋ち忠勤を勵み、父不忠の罪を償ひ、吾が忠誠を以て亡靈の迷ひを霽し度との立願なり。又父の囘向には、毎日千篇の心經懈らずと。兩人之を聞き、具に輝虎へ披露し、兒角尋常の人に替はりたる所多ければ、召出され候て、其行跡を御覽候へ、別條之あるべからずと申す。輝虎其方共達て左樣に存ずる上ならば、何事かあるべきと言て、召出し、側奉公申付けられけり。時に年十三。
現代語訳
長尾越前守政景の子で、叔父輝虎の嗣子となり、従三位に叙され、権中納言に任じられた。米沢城に住んだ。元和九年三月二十日に亡くなり、年は六十九であった。 輝虎が政景を殺した時、景勝はまだ喜平治といって十歳であったが、直江大和守実綱と甘糟近江守景持の二人に預けられた。十五歳までは政景の本領を両人で支配すること、喜平治が人となり器量があれば、十六歳から間違いなく返し与える、ということであった。喜平治は成長し、物柔らかで手ぬるいかと見れば、そうではなく、おおかたのことは堪忍し、怒る時は恐ろしく、また厳しく不仁かと思えば、慈悲があって、心を配り、ありがたいと思わせるように人を使い、また文武の道に心を入れ、老練な者の話を聞き、理非を吟味した。父の政景が罪を被って身を失ったのは天の罰であって、輝虎には少しも恨みはないと言って、毘沙門、八幡将軍、地蔵などの日は、前日から別火で垢離をとり、穀物や塩まで断って行をした。実綱と景持が、何のためにこのようになさるのかと尋ねると、喜平治は言った。政景の子であるから成敗されるべきところ、一命を助け置かれたばかりか、行く行くは私の心立てによって、植田の本領をも賜ると承った。この御恩にどうして報いたらよいだろう。一生のうちに召し出されたなら、身命を投げ出して忠勤に励み、父の不忠の罪を償い、私の忠誠によって亡き父の迷いを晴らしたいという願いからである。また、父の供養には、毎日千遍の心経を欠かさない、と。両人はこれを聞き、詳しく輝虎に披露し、とかく普通の人と違うところが多いので、召し出されて、その行いをご覧ください、間違いはないでしょうと申した。輝虎は、お前たちがそこまで言うなら、何事があろうかと言って、召し出し、側仕えを申し付けた。時に年十三であった。
解説

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