名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 虎千代、寺に預けられる
長尾信濃守爲景の子、上杉憲政の讓を受け、從四位下に叙し彈正少弼に任ず。關東の管領と爲る。後髮を削り、不識菴謙信と號し、春日山城に住す。初め景虎、政虎、後將軍義輝の偏名を賜はりて、今の名に改む。天正六年三月十三日卒す。年四十九。 ○輝虎、幼名虎千代と云ふ。兒たりし時、遊戲尋常にあらず、假初の翫びも異樣なるを好み、精悍にして膽略あり。動もすれば、父爲景の意に違ふ。爲景之を愛せず、出家させんとて、橡尾の淨安寺に遣はす。虎千代僧と成るを嫌ひて、背て僧事を學ばず、日に山童と戰鬪の狀を爲す。時に年八歲、寺僧終に僧たるべからずと思ひ、卽ち爲景に遣歸せり。
新字:長尾信濃守為景の子、上杉憲政の譲を受け、従四位下に叙し弾正少弼に任ず。関東の管領と為る。後髪を削り、不識菴謙信と号し、春日山城に住す。初め景虎、政虎、後将軍義輝の偏名を賜はりて、今の名に改む。天正六年三月十三日卒す。年四十九。 ○輝虎、幼名虎千代と云ふ。児たりし時、遊戯尋常にあらず、仮初の翫びも異様なるを好み、精悍にして胆略あり。動もすれば、父為景の意に違ふ。為景之を愛せず、出家させんとて、橡尾の浄安寺に遣はす。虎千代僧と成るを嫌ひて、背て僧事を学ばず、日に山童と戦闘の状を為す。時に年八歳、寺僧終に僧たるべからずと思ひ、即ち為景に遣帰せり。
書き下し
長尾信濃守爲景の子、上杉憲政の讓を受け、從四位下に叙し彈正少弼に任ず。關東の管領と爲る。後髮を削り、不識菴謙信と號し、春日山城に住す。初め景虎、政虎、後將軍義輝の偏名を賜はりて、今の名に改む。天正六年三月十三日卒す。年四十九。 ○輝虎、幼名虎千代と云ふ。兒たりし時、遊戲尋常にあらず、假初の翫びも異樣なるを好み、精悍にして膽略あり。動もすれば、父爲景の意に違ふ。爲景之を愛せず、出家させんとて、橡尾の淨安寺に遣はす。虎千代僧と成るを嫌ひて、背て僧事を學ばず、日に山童と戰鬪の狀を爲す。時に年八歲、寺僧終に僧たるべからずと思ひ、卽ち爲景に遣歸せり。
現代語訳
長尾信濃守為景の子で、上杉憲政の譲りを受け、従四位下に叙せられ、弾正少弼に任じられました。関東管領となります。のち髪を剃り、不識庵謙信と号し、春日山城に住みました。初めは景虎、政虎といい、のち将軍義輝の偏諱を賜って、今の名に改めました。天正六年三月十三日に亡くなりました。年四十九でした。 輝虎は幼名を虎千代といいます。子どものころ、遊びも尋常でなく、ちょっとした慰みにも風変わりなものを好み、精悍で胆力と知略がありました。ともすると父為景の意に背きました。為景はこれを愛さず、出家させようとして、橡尾の浄安寺に遣わしました。虎千代は僧になるのを嫌って、僧の修行を学ばず、毎日山の子どもたちと戦のまねごとをしました。そのとき八歳で、寺の僧もついに僧にはなれまいと思い、為景のもとに送り返しました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 主の座を辞して令を通す○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉景勝 父の罪と十歳の誓い長尾越前守政景の子、叔父輝虎の嗣と爲り、從三位に敘し、權中納言に任ず。米澤城に住す。元和九年三月二十日薨、年六十九。 ○輝虎、政景を殺せし時、景勝未だ喜平治と云て、十歲なりけるを、直江大和守實綱、甘糟近江守景持兩人に預け、十五歲までは政景の本領を兩人にて支配すべし、喜平治人となるべき器量あらば、十六歲より相違なく返し興ふべしとなり。喜平治人となり物柔らかにして、手ぬるきかと見れば、左はなく大形のことは堪忍し、怒る時は恐しく、又痛く不仁なるかと思へば、慈悲ありて、心を配り忝く存ずる樣に人を使ひ又文武の道に心を入れ、老功の者の物語を聞き、理非の吟味を爲せり。父政景の罪蒙りて身を失ひしは、天の罰なり、輝虎に少しも恨みなしとて、毘沙門、八幡將軍、地藏等の日は、前日より別火垢離し、穀鹽まで斷て行を爲せり。實綱、景持何の爲めに斯くの如くせらるゝと問へば、喜平治曰く、政景の子なれば御成敗あるべき所、一命を助け置かるゝのみならず、行々某が心立てに依つて、植田の本領をも賜はる樣に承はりたり。此の御恩何を以てか報ぜんや、一生の内召出されなば、身命を拋ち忠勤を勵み、父不忠の罪を償ひ、吾が忠誠を以て亡靈の迷ひを霽し度との立願なり。又父の囘向には、毎日千篇の心經懈らずと。兩人之を聞き、具に輝虎へ披露し、兒角尋常の人に替はりたる所多ければ、召出され候て、其行跡を御覽候へ、別條之あるべからずと申す。輝虎其方共達て左樣に存ずる上ならば、何事かあるべきと言て、召出し、側奉公申付けられけり。時に年十三。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 竹の指揮棒と家訓○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 父の死と逃亡の日々○天文十四年四月、爲景栴檀野にて戰死せし由、府內へ聞えければ、爲景の族長尾平六俊景俄に兵を起し、府內の城を襲ふ。輝虎味方の敗軍を見て、取て返して戰はんとする所を、小島勘左衞門走寄り、袖を控へ大將の公達たらん人は、御身を完うして時を待ち、逆徒を打平げ給ふこそ、御本意なるべけれ、今爰に死し給ふは却て未練の御働なりとて、人紛れに誘ひ去らんとしけれども、敵大勢群り來る故、如何ともすべからず。如何せんと前後の透間を窺ふ所に、門番に居合はせたる山岸莊助と申足輕、小さかしき者にて、番所の板敷引發し、匿くし置く。程なく夜に入りければ、開て之を出だすに、熟眠して居たり。夫を喚起して林泉寺へ落しけり。寺僧亦之を危ぶみ、其夜の中に乳母の夫橡尾の本莊美作守慶秀に托す。慶秀則ち我が家に匿くし、宇佐美駿河守定行と共に、心を盡して保護せり。 ○明年正月、輝虎、賊の己を捜索して已まざるを聞き、出て之を避けんと欲し、從士十四人と行脚の僧狀を爲し行縢を着し、草鞋を穿ち出て米山に上り、府內を臨み覗て曰く、吾他日兵を起し、國を復する時は、必ず此に陣せんと。遂に栴檀野に至り、泣き且つ拜して曰く、兒必ず仇敵を夷滅して、以て冤魂を慰せんと。是に於て北陸東山の諸國を經歷し、山川城地の形勢を周視し、悉く圖寫して齎らし歸る。既にして賊に告ぐるに輝虎の在る所を以てする者あり。賊人を遣はし來り捕へんとす。輝虎慶秀、定行と謀り、兵を起し橡尾の城を修め、之に楯籠れり。
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