名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 毘沙門より我を拝め
○輝虎、常に毘沙門天を信仰し、家の旗印も毘沙門の毘の字を記したり。盟約の事抔ある時は、毘沙門堂の前に打寄り、輝虎着座ありて、老臣を始め、一家中段々と並居ることなり。或時隣國に一揆蜂起のことありて、間者を入るゝこと急なり。彼者に神文させんと言ふに、輝虎既に急なり。毘沙門堂へ連れて行けば、夫丈け遲くならん、卽刻我前にて神文させよと言はれければ、老臣等例に違ふとて從はず。輝虎笑て、我あればこそ毘沙門も用ひらるべけれ。我なくば毘沙門もありはせじ、我毘沙門を百度拜せば、毘沙門も我を五十度か、三十度拜せらるべし、我をば毘沙門と思ひて、我前にて神文させよと言はれければ、老臣服して、彼者に神文させて出しけり。 ○輝虎曰く、武邊の働きは武士の常なり、百姓の耕作に同じ。武士は只平生の作法能く義理正きを以て上とす。武邊の働き計りを以て、知行を多く與へ、人の頭とすべからずと。 ○輝虎信義を重んじ、假りにも僞ることを恥とし、他を欺くことなき故、敵其信に服し、降參和融の節も、上杉家より人質を乞たることなしとぞ。 ○輝虎士を好み、他邦勇銳の士を圖せしめ、壯觀とせり。又精舍を春日山に築き、不識菴と號し、盡く將士難に死する者を牌し、自ら之を弔祭せり。
新字:○輝虎、常に毘沙門天を信仰し、家の旗印も毘沙門の毘の字を記したり。盟約の事抔ある時は、毘沙門堂の前に打寄り、輝虎着座ありて、老臣を始め、一家中段々と並居ることなり。或時隣国に一揆蜂起のことありて、間者を入るゝこと急なり。彼者に神文させんと言ふに、輝虎既に急なり。毘沙門堂へ連れて行けば、夫丈け遅くならん、即刻我前にて神文させよと言はれければ、老臣等例に違ふとて従はず。輝虎笑て、我あればこそ毘沙門も用ひらるべけれ。我なくば毘沙門もありはせじ、我毘沙門を百度拝せば、毘沙門も我を五十度か、三十度拝せらるべし、我をば毘沙門と思ひて、我前にて神文させよと言はれければ、老臣服して、彼者に神文させて出しけり。 ○輝虎曰く、武辺の働きは武士の常なり、百姓の耕作に同じ。武士は只平生の作法能く義理正きを以て上とす。武辺の働き計りを以て、知行を多く与へ、人の頭とすべからずと。 ○輝虎信義を重んじ、仮りにも偽ることを恥とし、他を欺くことなき故、敵其信に服し、降参和融の節も、上杉家より人質を乞たることなしとぞ。 ○輝虎士を好み、他邦勇鋭の士を図せしめ、壮観とせり。又精舎を春日山に築き、不識菴と号し、尽く将士難に死する者を牌し、自ら之を弔祭せり。
書き下し
○輝虎、常に毘沙門天を信仰し、家の旗印も毘沙門の毘の字を記したり。盟約の事抔ある時は、毘沙門堂の前に打寄り、輝虎着座ありて、老臣を始め、一家中段々と並居ることなり。或時隣國に一揆蜂起のことありて、間者を入るゝこと急なり。彼者に神文させんと言ふに、輝虎既に急なり。毘沙門堂へ連れて行けば、夫丈け遲くならん、卽刻我前にて神文させよと言はれければ、老臣等例に違ふとて從はず。輝虎笑て、我あればこそ毘沙門も用ひらるべけれ。我なくば毘沙門もありはせじ、我毘沙門を百度拜せば、毘沙門も我を五十度か、三十度拜せらるべし、我をば毘沙門と思ひて、我前にて神文させよと言はれければ、老臣服して、彼者に神文させて出しけり。 ○輝虎曰く、武邊の働きは武士の常なり、百姓の耕作に同じ。武士は只平生の作法能く義理正きを以て上とす。武邊の働き計りを以て、知行を多く與へ、人の頭とすべからずと。 ○輝虎信義を重んじ、假りにも僞ることを恥とし、他を欺くことなき故、敵其信に服し、降參和融の節も、上杉家より人質を乞たることなしとぞ。 ○輝虎士を好み、他邦勇銳の士を圖せしめ、壯觀とせり。又精舍を春日山に築き、不識菴と號し、盡く將士難に死する者を牌し、自ら之を弔祭せり。
現代語訳
輝虎は、常に毘沙門天を信仰し、家の旗印にも毘沙門の「毘」の字を記しました。盟約のことなどがあるときは、毘沙門堂の前に打ち寄り、輝虎が着座し、老臣をはじめ、一家中がだんだんと並び居るのが常でした。あるとき隣国に一揆が蜂起することがあり、間者を入れることが急がれました。その者に神文(誓紙)をさせようというとき、輝虎は、「事はすでに急ぐ。毘沙門堂へ連れて行けば、それだけ遅くなる。すぐに私の前で神文をさせよ」と言われましたが、老臣らは、例に違うといって従いません。輝虎は笑って言いました。「私があればこそ、毘沙門も用いられるのだ。私がなければ、毘沙門もあるまい。私が毘沙門を百度拝めば、毘沙門も私を五十度か三十度は拝まれるだろう。私を毘沙門と思って、私の前で神文をさせよ」と。老臣は服して、その者に神文をさせて出しました。 輝虎は言いました。「武辺の働きは武士の常である。百姓の耕作と同じことだ。武士はただ平生の作法がよく、義理が正しいことを上とする。武辺の働きだけで知行を多く与え、人の頭とするべきではない」と。 輝虎は信義を重んじ、かりそめにも偽ることを恥とし、他人を欺くことがなかったので、敵もその信義に服し、降参・和睦の折にも、上杉家から人質を求めたことはなかったと伝わります。 輝虎は士を好み、他国の勇敢な士の肖像を描かせて壮観としました。また春日山に精舎を築き、不識庵と号し、ことごとく戦難に死んだ将士の位牌を立てて、自らこれを弔い祭りました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 竹の指揮棒と家訓○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 子を失った家臣への情○輝虎の臣廉將監が嫡子甚次郎、不義ある故に死罪を行ひ、父將監が方へ使を遣はし、甚次郞が罪を申聞かせて、父母には憐みを加へしに、將監一旦は君命を畏りて奥に入りたりしが、頓て長刀を持出て使者に立向ひ、謙信公次に其方達に怨みなし、只子を思ふ道に迷て氣が違ひたるぞと、言も敢へず二人の使者を突伏せけるに、近邊の輩馳集り、將監其外働きたる家來を悉く誅戮す。此時手負死人三十人に及びたれども、輝虎更に怒らず、子を失ひて氣の違ひたるも不便なりとて、其妻と娘を厚く扶持せられけり。 ○輝虎、晴信と和平を結びし時、使僧の長遠寺に問て曰く、甲斐の侍に向井與左衞門と云ふ者ありや。之れあると申す。又創の痕ありやと問へば、面に刀の痕ありと言ふ。輝虎曰く、河中島の戰に名乘り掛けて、我を後より突く所を振り顧て、一刀斬りたりしぞかし。よも助からずと思ひしに、生存へたるよなとて、萌黄の胴肩衣に鎗の痕あるを取出し、書簡を副へて向井に賜られけり。之を世に返り感狀と云ふ。其書中に河中島の事を載せたりとぞ。 ○忍にて輝虎、北條氏政と對陣の時、太田資正別心の沙汰ありければ、輝虎只一騎にて急に資正が備へ乘込み、資正が三男安房守資氏、其時十二歳になりしをひしと手を取り、偖々能き生質哉と我子に申請んとて、連れ歸れり。資正は氏政を引付けて、手替りせんと思ふ所に、氏政人數未だ來らざる先きに、輝虎人質を取て歸りし故、すべき樣なくて別心を止めしとぞ。人皆輝虎が急に來りしを感じあへり。