名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 鵺の段と義経の武辺
○輝虎二十歳計りの時、石坂撿校に平家の所望ありけるに鵺の段を語りければ、輝虎頻りに落涙せられけり。近臣怪みて之を問ふに、輝虎我國の弓箭の威德の衰へ行くが悲きぞや、案じても見よ、鳥羽院の御時に大内に怪異のありし時、八幡太郎義家の弓を御側に置かれたりしかば物怪忽ちに退きぬ、又或時は鎭守府將軍源義家之に罷在ると言て、鳴弦したりし程に、妖怪消失せしと言へり、然るに頼政は鵺を射たれど猶死せずして猶早太之を差殺したりと言へり、義家の鳴弦せしと、頼政の鵺を射たる其間、僅に四十餘年なるに、弓箭の衰へしことは遙なり。今又頼政に後るゝこと四百年に及ぶ。去れば頼政程の弓執りさへ有り難き世なり、況や義家の如きは思ひも寄らず。然らば彼等が弓箭の位も推量られたりと言はれしとぞ。 ○輝虎常に曰く、吾は義經に武邊を習へり、人々は平家を昔物語に聞きし故、身の用に立たず、吾は義經の武邊の所を身に當てゝ聞き、身に比ぶるなりと。村上義淸來り投ぜし時、輝虎、晴信の兵を用ふることを尋ねし時にも、吾は義經の軍を回さぬ所を學ぶと言はれけり。 ○輝虎學を好み、和歌及び詩を善せり。天正二年、能登七尾の城を攻落し、九月十三日夜、明月なればとて、詩歌の會あり。輝虎、「霜滿二陣營一秋氣清。數行過雁月三更。越山併得二能州景一。任他家鄕憶二遠征一。」又「月澄まば猶靜かなり秋の海。」又越中魚津の城にて初雁を聞き「武夫の鎧の袖をかたしきて枕に近き初雁の聲」。
新字:○輝虎二十歳計りの時、石坂撿校に平家の所望ありけるに鵺の段を語りければ、輝虎頻りに落涙せられけり。近臣怪みて之を問ふに、輝虎我国の弓箭の威徳の衰へ行くが悲きぞや、案じても見よ、鳥羽院の御時に大内に怪異のありし時、八幡太郎義家の弓を御側に置かれたりしかば物怪忽ちに退きぬ、又或時は鎮守府将軍源義家之に罷在ると言て、鳴弦したりし程に、妖怪消失せしと言へり、然るに頼政は鵺を射たれど猶死せずして猶早太之を差殺したりと言へり、義家の鳴弦せしと、頼政の鵺を射たる其間、僅に四十余年なるに、弓箭の衰へしことは遥なり。今又頼政に後るゝこと四百年に及ぶ。去れば頼政程の弓執りさへ有り難き世なり、況や義家の如きは思ひも寄らず。然らば彼等が弓箭の位も推量られたりと言はれしとぞ。 ○輝虎常に曰く、吾は義経に武辺を習へり、人々は平家を昔物語に聞きし故、身の用に立たず、吾は義経の武辺の所を身に当てゝ聞き、身に比ぶるなりと。村上義清来り投ぜし時、輝虎、晴信の兵を用ふることを尋ねし時にも、吾は義経の軍を回さぬ所を学ぶと言はれけり。 ○輝虎学を好み、和歌及び詩を善せり。天正二年、能登七尾の城を攻落し、九月十三日夜、明月なればとて、詩歌の会あり。輝虎、「霜満二陣営一秋気清。数行過雁月三更。越山併得二能州景一。任他家郷憶二遠征一。」又「月澄まば猶静かなり秋の海。」又越中魚津の城にて初雁を聞き「武夫の鎧の袖をかたしきて枕に近き初雁の声」。
書き下し
○輝虎二十歳計りの時、石坂撿校に平家の所望ありけるに鵺の段を語りければ、輝虎頻りに落涙せられけり。近臣怪みて之を問ふに、輝虎我國の弓箭の威德の衰へ行くが悲きぞや、案じても見よ、鳥羽院の御時に大内に怪異のありし時、八幡太郎義家の弓を御側に置かれたりしかば物怪忽ちに退きぬ、又或時は鎭守府將軍源義家之に罷在ると言て、鳴弦したりし程に、妖怪消失せしと言へり、然るに頼政は鵺を射たれど猶死せずして猶早太之を差殺したりと言へり、義家の鳴弦せしと、頼政の鵺を射たる其間、僅に四十餘年なるに、弓箭の衰へしことは遙なり。今又頼政に後るゝこと四百年に及ぶ。去れば頼政程の弓執りさへ有り難き世なり、況や義家の如きは思ひも寄らず。然らば彼等が弓箭の位も推量られたりと言はれしとぞ。 ○輝虎常に曰く、吾は義經に武邊を習へり、人々は平家を昔物語に聞きし故、身の用に立たず、吾は義經の武邊の所を身に當てゝ聞き、身に比ぶるなりと。村上義淸來り投ぜし時、輝虎、晴信の兵を用ふることを尋ねし時にも、吾は義經の軍を回さぬ所を學ぶと言はれけり。 ○輝虎學を好み、和歌及び詩を善せり。天正二年、能登七尾の城を攻落し、九月十三日夜、明月なればとて、詩歌の會あり。輝虎、「霜滿二陣營一秋氣清。數行過雁月三更。越山併得二能州景一。任他家鄕憶二遠征一。」又「月澄まば猶靜かなり秋の海。」又越中魚津の城にて初雁を聞き「武夫の鎧の袖をかたしきて枕に近き初雁の聲」。
現代語訳
輝虎が二十歳ばかりのとき、石坂検校に平家の所望があり、鵺の段を語ったところ、輝虎はしきりに落涙されました。近臣が怪しんで尋ねると、輝虎は言いました。「我が国の弓矢の威徳が衰えていくのが悲しいのだ。考えてもみよ。鳥羽院の御時に内裏に怪異があったとき、八幡太郎義家の弓をお側に置かれたところ、物の怪はたちまち退いた。またあるときは『鎮守府将軍源義家これにあり』と言って鳴弦したところ、妖怪が消え失せたという。それなのに頼政は鵺を射たが、なお死なず、早太がこれを刺し殺したという。義家が鳴弦したことと頼政が鵺を射たことの間は、わずか四十余年なのに、弓矢の衰えは大きい。今また頼政より遅れること四百年に及ぶ。だから頼政ほどの弓取りでさえ得がたい世であり、まして義家のような者は思いも寄らない。それなら彼らの弓矢の位も推し量られる」と言われたということです。 輝虎はいつも言いました。「私は義経に武辺を習った。人々は平家を昔物語として聞いたので、わが身の役に立たない。私は義経の武辺の所を自分の身に当てて聞き、身に比べるのだ」と。村上義清が来て身を投じたとき、輝虎が、晴信の兵の用い方を尋ねたときにも、「私は義経が軍を回さない所を学ぶ」と言われました。 輝虎は学問を好み、和歌と詩を得意としました。天正二年、能登七尾の城を攻め落とし、九月十三日の夜、明月だというので詩歌の会がありました。輝虎は、「霜は陣営に満ちて秋の気は清らかである。数行の雁が過ぎ、月は三更。越山の軍は能州の景色を併せ得た。故郷の人が遠征を思うにまかせよう」と詠み、また「月が澄むならなお静かであろう秋の海」と詠みました。また越中の魚津の城で初雁を聞いて、「武士が鎧の袖を片敷いて寝る、その枕に近く聞こえる初雁の声よ」と詠みました。
解説

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