名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 武具の優劣を論じるな
○輝虎、越前宮野の城主中澤長兵衞、信長に語らはれ、越後輿力の志を變じけるに依て、此年十二月歳末の禮に來るを誘し、其家臣五十餘人を中條五郎左衞門、苦桃伊織に命じて之を誅す。然るに、中條半藏は鳥銃にて鎗の間の窓より下り、目當にして八人まで打殺せり。又苦桃が家來淨眞と曰ふ者小太刀を以て七人まで切り殺す。時に三郞景虎曰く、鳥銃は遠業物と聞けり、淨眞の働きは拔群のことゝ賞翫あるを、輝虎聞て何にてもあれ、武具は得たる者を專用とす、假令遠業者にてあればとて、死したる命が否と言ふか、小太刀にて討ちつるも、敵を亡したる道理は同じことよ、大將たらん人の一言、遠慮あるべきことなり、卒爾の義を言ふもの哉とて、景虎をはつたと白眼めり。側に居りし人々皆汗を流せしとぞ。
新字:○輝虎、越前宮野の城主中沢長兵衛、信長に語らはれ、越後輿力の志を変じけるに依て、此年十二月歳末の礼に来るを誘し、其家臣五十余人を中条五郎左衛門、苦桃伊織に命じて之を誅す。然るに、中条半蔵は鳥銃にて鎗の間の窓より下り、目当にして八人まで打殺せり。又苦桃が家来浄真と曰ふ者小太刀を以て七人まで切り殺す。時に三郎景虎曰く、鳥銃は遠業物と聞けり、浄真の働きは抜群のことゝ賞翫あるを、輝虎聞て何にてもあれ、武具は得たる者を専用とす、仮令遠業者にてあればとて、死したる命が否と言ふか、小太刀にて討ちつるも、敵を亡したる道理は同じことよ、大将たらん人の一言、遠慮あるべきことなり、卒爾の義を言ふもの哉とて、景虎をはつたと白眼めり。側に居りし人々皆汗を流せしとぞ。
書き下し
○輝虎、越前宮野の城主中澤長兵衞、信長に語らはれ、越後輿力の志を變じけるに依て、此年十二月歳末の禮に來るを誘し、其家臣五十餘人を中條五郎左衞門、苦桃伊織に命じて之を誅す。然るに、中條半藏は鳥銃にて鎗の間の窓より下り、目當にして八人まで打殺せり。又苦桃が家來淨眞と曰ふ者小太刀を以て七人まで切り殺す。時に三郞景虎曰く、鳥銃は遠業物と聞けり、淨眞の働きは拔群のことゝ賞翫あるを、輝虎聞て何にてもあれ、武具は得たる者を專用とす、假令遠業者にてあればとて、死したる命が否と言ふか、小太刀にて討ちつるも、敵を亡したる道理は同じことよ、大將たらん人の一言、遠慮あるべきことなり、卒爾の義を言ふもの哉とて、景虎をはつたと白眼めり。側に居りし人々皆汗を流せしとぞ。
現代語訳
輝虎は、越前宮野の城主中沢長兵衛が、信長に誘われて越後への加勢の志を変えたことから、この年十二月の歳末の礼に来るのを誘い出し、その家臣五十余人を、中条五郎左衛門、苦桃伊織に命じて誅殺させました。そのとき中条半蔵は、鳥銃で槍の間の窓から下ろして目当てにし、八人まで撃ち殺しました。また苦桃の家来で浄真という者は、小太刀で七人まで切り殺しました。そのとき三郎景虎が、「鳥銃は遠業物(遠くから討つ武器)と聞く。浄真の働きは抜群だ」と賞賛しましたところ、輝虎は聞いて、「何であれ、武具は得意とする者が専ら用いるものだ。たとえ遠業物であっても、死んだ命が否と言うか。小太刀で討ったのも、敵を亡ぼした道理は同じことだ。大将たる人の一言は、遠慮があるべきものだ。軽率なことを言う者だ」と言って、景虎をはたとにらみました。側にいた人々は皆汗を流したと伝わります。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 鳥銃を捨てた岑沢○輝虎、武藏、上野、下野邊へ毎年五七十日の間往返せしに、敵の城城皆門を閉ぢて出合はず、況や戰ふ者をや、敵は論なし、味方の大小名も、此序に取られんかと、上下安き心なし。關東の敵味方、輝虎越後へ歸陣するに、上野猿ケ京を通り過ぎたりと聞て、初て安堵の思ひを成せり。只大夕立大雷鳴過ぎて後、雨霽たる心地して、喜びけるとぞ。 ○輝虎の臣岑澤某と云ふ者、罪ありて放斥せられ、越中の椎名に奉公せり。輝虎越中へ兵を出しゝ時、岑澤叢に隱れ、鳥銃を以て伺ひ居たりしが、俄に鳥銃を傍らに扱け捨て、泣き居たり。輝虎見出して、如何に岑澤珍しと言はれしかば、岑澤さばかりの仁君智將を討ち奉らんと存せしこと、悔く成て候、今遙に見奉りて、先きに屋形の心に背き、又斯る巧を仕ること、此上もなき大罪にて候、疾々首を刎らるべしと言て、伏しければ、輝虎打笑ひ、吾に智仁とは相應せざる虛名なり、疾く馳歸りて、椎名に能く仕へよと言はれしかども、岑澤越後に歸りて農夫となりて、一生を終りたりとかや。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 竹の指揮棒と家訓○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
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