名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 敵将が守った血脈
○輝虎、既に中澤を誅して後、河田豐前守、長尾小四郞、上村甚右衞門以下五十餘人をして、中澤が城を攻めしむ。城には中澤が弟右衞門督及び、板持美濃守三百餘人にて籠りしが、終に叶はず城を火にして自害しける時、美濃守自分の女童を手に掛け、長兵衞が妻及び、九歳の女子を始め、二十人計りありける女を、庭の植込の中に立ち忍ばせ、館の燃る煙を避けしめ、事平ぐの後に至らば、大和國多武峰に行て、某が親き行脚僧都を頼み給ひ、責めては殿の血脈を遺させられんこそ、本意なれと言ければ、皆敎の儘に隱れたり。然る後今は心易しとて、腹を切れば、城は忽ち落にけり。頓て河田が手の者、此女子共を生捕り春日山へ將て行き、輝虎に斯と告ぐ。輝虎聞て、板持美濃は智勇全備の士なることは、汝等も知る所なり、今度宮野の落城女童まで殘らず取仕廻たる其中に、何故に此者計り助けて置きぬらんと案ずるに、長兵衞、淸和の家流として、世に志願ある者なれば、血脈を此度絶さんこと是非に及ばずと思ふ所にぞあらん。妻女は定めて、懷胎にてもあるか、若し男子抔產せば、猶故ある志なり、誠に美濃が所爲義に當れり。然るを輝虎、心なく之を絶つこと無道なり。殊更女の身なれば、何の科ありてか之を誅すべき、唯助けて何方へも便ある所へ送るべしと言はれければ、三將別て痛はり、多武峰にぞ送りける。
新字:○輝虎、既に中沢を誅して後、河田豊前守、長尾小四郎、上村甚右衛門以下五十余人をして、中沢が城を攻めしむ。城には中沢が弟右衛門督及び、板持美濃守三百余人にて籠りしが、終に叶はず城を火にして自害しける時、美濃守自分の女童を手に掛け、長兵衛が妻及び、九歳の女子を始め、二十人計りありける女を、庭の植込の中に立ち忍ばせ、館の燃る煙を避けしめ、事平ぐの後に至らば、大和国多武峰に行て、某が親き行脚僧都を頼み給ひ、責めては殿の血脈を遺させられんこそ、本意なれと言ければ、皆教の儘に隠れたり。然る後今は心易しとて、腹を切れば、城は忽ち落にけり。頓て河田が手の者、此女子共を生捕り春日山へ将て行き、輝虎に斯と告ぐ。輝虎聞て、板持美濃は智勇全備の士なることは、汝等も知る所なり、今度宮野の落城女童まで残らず取仕廻たる其中に、何故に此者計り助けて置きぬらんと案ずるに、長兵衛、清和の家流として、世に志願ある者なれば、血脈を此度絶さんこと是非に及ばずと思ふ所にぞあらん。妻女は定めて、懐胎にてもあるか、若し男子抔産せば、猶故ある志なり、誠に美濃が所為義に当れり。然るを輝虎、心なく之を絶つこと無道なり。殊更女の身なれば、何の科ありてか之を誅すべき、唯助けて何方へも便ある所へ送るべしと言はれければ、三将別て痛はり、多武峰にぞ送りける。
書き下し
○輝虎、既に中澤を誅して後、河田豐前守、長尾小四郞、上村甚右衞門以下五十餘人をして、中澤が城を攻めしむ。城には中澤が弟右衞門督及び、板持美濃守三百餘人にて籠りしが、終に叶はず城を火にして自害しける時、美濃守自分の女童を手に掛け、長兵衞が妻及び、九歳の女子を始め、二十人計りありける女を、庭の植込の中に立ち忍ばせ、館の燃る煙を避けしめ、事平ぐの後に至らば、大和國多武峰に行て、某が親き行脚僧都を頼み給ひ、責めては殿の血脈を遺させられんこそ、本意なれと言ければ、皆敎の儘に隱れたり。然る後今は心易しとて、腹を切れば、城は忽ち落にけり。頓て河田が手の者、此女子共を生捕り春日山へ將て行き、輝虎に斯と告ぐ。輝虎聞て、板持美濃は智勇全備の士なることは、汝等も知る所なり、今度宮野の落城女童まで殘らず取仕廻たる其中に、何故に此者計り助けて置きぬらんと案ずるに、長兵衞、淸和の家流として、世に志願ある者なれば、血脈を此度絶さんこと是非に及ばずと思ふ所にぞあらん。妻女は定めて、懷胎にてもあるか、若し男子抔產せば、猶故ある志なり、誠に美濃が所爲義に當れり。然るを輝虎、心なく之を絶つこと無道なり。殊更女の身なれば、何の科ありてか之を誅すべき、唯助けて何方へも便ある所へ送るべしと言はれければ、三將別て痛はり、多武峰にぞ送りける。
現代語訳
輝虎は中沢を誅したのち、河田豊前守、長尾小四郎、上村甚右衛門以下五十余人に、中沢の城を攻めさせました。城には中沢の弟右衛門督と板持美濃守が三百余人で籠もっていましたが、ついに叶わず、城を火にして自害するとき、美濃守は自分の女や子どもを手にかけ、長兵衛の妻と九歳の女の子をはじめ、二十人ばかりいた女たちを庭の植え込みの中に立ち忍ばせ、館の燃える煙を避けさせ、「事が収まった後には、大和国の多武峰に行って、私の親しい行脚の僧都を頼りなされ。せめて殿の血脈を遺されることこそ本意である」と言いましたので、皆は教えのままに隠れました。その後、「今は安心だ」と言って腹を切り、城はたちまち落ちました。やがて河田の手の者が、この女子たちを生け捕って春日山へ連れて行き、輝虎にこのことを告げました。輝虎は聞いて言いました。「板持美濃は智勇を兼ね備えた士であることは、お前たちも知るところだ。今度の宮野の落城で、女子供まで残らず始末した中で、なぜこの者たちだけを助けておいたのかと考えるに、長兵衛は清和源氏の家流で、世に志願のある者だから、血脈をこのたび絶やすのはやむを得ないと思ったところだろう。妻女はおそらく身ごもっているのだろう。もし男子を産めば、なお故ある志だ。まことに美濃のしたことは義に当たっている。それなのに輝虎が心なくこれを絶やすのは無道である。ことに女の身であるから、何の科があって誅すべきか。ただ助けて、どこへでも縁のある所へ送れ」と言われたので、三将は手分けしていたわり、多武峰に送りました。
解説

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