艮斎閑話抄録 / 敵の死を喜ばない謙信の度量
武田信玄は一代の雄傑にて兵を用ひると神の如し、其麾下驍勇の士多く、隣國を蠶食し武略を逞す、尤も越後の上杉氏とは度々の合戰にて怨恨深し、然るに信玄死せし頃、謙信は春日山に在て湯漬を食せしが、其死を聞き箸を投て長嘆せるは、度量の大なる感稱すべし、晉の文公は子玉の死を聞て大に喜て曰く、予を毒する者なし、宋の檀道濟殺されたりと聞き、魏人喜て曰く、道濟死して吳子輩は憚に足らず、齊にて斛律光を殺せば、周の武帝境內に大赦を行ひ、宋の高宗岳飛を殺せば、金人酒を酌て相賀す、敵國の名將忠臣の死するを聞て喜は豪傑の事に非なり、晉の文公周の武帝は英主なれども、此一事は謙信に及ばざると遠し、
新字:武田信玄は一代の雄傑にて兵を用ひると神の如し、其麾下驍勇の士多く、隣国を蠶食し武略を逞す、尤も越後の上杉氏とは度々の合戦にて怨恨深し、然るに信玄死せし頃、謙信は春日山に在て湯漬を食せしが、其死を聞き箸を投て長嘆せるは、度量の大なる感称すべし、晋の文公は子玉の死を聞て大に喜て曰く、予を毒する者なし、宋の檀道済殺されたりと聞き、魏人喜て曰く、道済死して呉子輩は憚に足らず、斉にて斛律光を殺せば、周の武帝境内に大赦を行ひ、宋の高宗岳飛を殺せば、金人酒を酌て相賀す、敵国の名将忠臣の死するを聞て喜は豪傑の事に非なり、晋の文公周の武帝は英主なれども、此一事は謙信に及ばざると遠し、
書き下し
武田信玄は一代の雄傑にて兵を用ひると神の如し、其麾下驍勇の士多く、隣國を蠶食し武略を逞す、尤も越後の上杉氏とは度々の合戰にて怨恨深し、然るに信玄死せし頃、謙信は春日山に在て湯漬を食せしが、其死を聞き箸を投て長嘆せるは、度量の大なる感稱すべし、晉の文公は子玉の死を聞て大に喜て曰く、予を毒する者なし、宋の檀道濟殺されたりと聞き、魏人喜て曰く、道濟死して吳子輩は憚に足らず、齊にて斛律光を殺せば、周の武帝境內に大赦を行ひ、宋の高宗岳飛を殺せば、金人酒を酌て相賀す、敵國の名將忠臣の死するを聞て喜は豪傑の事に非なり、晉の文公周の武帝は英主なれども、此一事は謙信に及ばざると遠し、
現代語訳
武田信玄は一代の傑物で、兵を用いることは神のようでした。配下には勇猛な士が多く、隣国を侵食して武略をほしいままにしました。とりわけ越後の上杉氏とは度々の合戦で恨みが深くなっていました。ところが信玄が死んだ頃、上杉謙信は春日山にいて湯漬けを食べていましたが、その死を聞くと箸を投げ出して長くため息をつきました。これは度量の大きさとして感心すべきことです。晋の文公は子玉の死を聞いて大いに喜び「私を害する者はいなくなった」と言いました。宋の檀道済が殺されたと聞くと、魏の人は喜んで「道済が死んで、呉の者たちは恐れるに足りない」と言いました。斉が斛律光を殺すと、周の武帝は国内に大赦を行い、宋の高宗が岳飛を殺すと、金の人は酒を酌んで互いに祝いました。敵国の名将や忠臣の死を聞いて喜ぶのは、豪傑のすることではありません。晋の文公や周の武帝は英主ですが、この一事については謙信にはるかに及びません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『酔古堂剣掃』集法・人の詐りを覺るも言に形さず人の詐りを覺るも、言に形さず。人の侮りを受くるも、色に動かさず。此の中に無窮の意味有り、亦た無窮の受用有り。
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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史記 項羽本紀其の後に最(あつ)まりて、郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝・楊武各々其の一体を得たり。五人共に其の体を会するに、皆是なり。故に其の地を分かちて五と為し、呂馬童を封じて中水侯と為し、王翳を封じて杜衍侯と為し、楊喜を封じて赤泉侯と為し、楊武を封じて呉防侯と為し、呂勝を封じて涅陽侯と為す。項王已に死し、楚の地皆漢に降る、独り魯のみ下らず。漢乃ち天下の兵を引きて之を屠らんと欲す、其の礼義を守り、主の為に節に死するが為に、乃ち項王の頭を持ちて魯に視(しめ)す、魯の父兄乃ち降る。始め、楚の懐王初めて項籍を封じて魯公と為す、其の死するに及びて、魯最後に下る、故に魯公の礼を以て項王を穀城に葬る。漢王為に哀を発し、之に泣きて去る。諸々の項氏の枝属、漢王皆誅せず。乃ち項伯を封じて射陽侯と為す。桃侯・平皋侯・玄武侯は皆項氏なり、姓劉氏を賜ふ。太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と、又聞く項羽も亦重瞳子なりと。羽豈に其の苗裔ならんや。何ぞ興ることの暴かなるや。夫れ秦其の政を失ひ、陳渉難を首め、豪傑蠭起し、相与に并び争ふこと、勝げて数ふべからず。
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『春秋左氏伝』僖公二十三年 天の興す所、誰か廃せん子玉之を殺さんと請ふ。楚子曰く、「晉の公子は廣くして儉、文にして禮有り。其の從者は肅にして寬、忠にして能く力む。晉侯親無く、外內之を惡む。吾聞く、姬姓は唐叔の後、其の後に衰ふる者なりと。其れ將に晉の公子に由らんか。天將に之を興さんとす、誰か能く之を廢せん。天に違へば必ず大咎有り」と。乃ち諸を秦に送る。秦伯女五人を納る、懷嬴與る。匜を奉じて沃盥す、既にして之を揮ふ。怒りて曰く、「秦・晉は匹なり、何を以て我を卑しむる」と。公子懼れ、服を降して囚す。他日、公之を享す。子犯曰く、「吾衰の文なるに如かず、請ふ衰をして從はしめん」と。公子《河水》を賦し、公《六月》を賦す。趙衰曰く、「重耳賜を拜せよ」と。公子降りて、拜稽首す。公一級を降りて辭す。衰曰く、「君天子を佐くる所以の者を稱げて重耳に命ず、重耳敢へて拜せざらんや」と。
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『酔古堂剣掃』集醒・內は精明にして外は渾厚好醜の心太だ明らかなれば、則ち物契はず。賢愚の心太だ明らかなれば、則ち人親しまず。須らく是れ內は精明にして、外は渾厚、好醜をして兩つながら其の平を得しめ、賢愚をして共に其の益を受けしむべし。纔かに是れ生成の德量なり。
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『酔古堂剣掃』集法・自ら重んずる者にして人重んず我能く人を容るれば、人は我が範圍に在り、之に報ゆるも我に在り、報いざるも我に在り。人若し我を容るれば、我は人の範圍に在り、報いざるも知らず、之に報ゆるも知らず。自ら重んずる者にして然る後に人重んじ、人の輕んずるは我自ら輕んずるに由る。

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