名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 父の死と逃亡の日々
○天文十四年四月、爲景栴檀野にて戰死せし由、府內へ聞えければ、爲景の族長尾平六俊景俄に兵を起し、府內の城を襲ふ。輝虎味方の敗軍を見て、取て返して戰はんとする所を、小島勘左衞門走寄り、袖を控へ大將の公達たらん人は、御身を完うして時を待ち、逆徒を打平げ給ふこそ、御本意なるべけれ、今爰に死し給ふは却て未練の御働なりとて、人紛れに誘ひ去らんとしけれども、敵大勢群り來る故、如何ともすべからず。如何せんと前後の透間を窺ふ所に、門番に居合はせたる山岸莊助と申足輕、小さかしき者にて、番所の板敷引發し、匿くし置く。程なく夜に入りければ、開て之を出だすに、熟眠して居たり。夫を喚起して林泉寺へ落しけり。寺僧亦之を危ぶみ、其夜の中に乳母の夫橡尾の本莊美作守慶秀に托す。慶秀則ち我が家に匿くし、宇佐美駿河守定行と共に、心を盡して保護せり。 ○明年正月、輝虎、賊の己を捜索して已まざるを聞き、出て之を避けんと欲し、從士十四人と行脚の僧狀を爲し行縢を着し、草鞋を穿ち出て米山に上り、府內を臨み覗て曰く、吾他日兵を起し、國を復する時は、必ず此に陣せんと。遂に栴檀野に至り、泣き且つ拜して曰く、兒必ず仇敵を夷滅して、以て冤魂を慰せんと。是に於て北陸東山の諸國を經歷し、山川城地の形勢を周視し、悉く圖寫して齎らし歸る。既にして賊に告ぐるに輝虎の在る所を以てする者あり。賊人を遣はし來り捕へんとす。輝虎慶秀、定行と謀り、兵を起し橡尾の城を修め、之に楯籠れり。
新字:○天文十四年四月、為景栴檀野にて戦死せし由、府内へ聞えければ、為景の族長尾平六俊景俄に兵を起し、府内の城を襲ふ。輝虎味方の敗軍を見て、取て返して戦はんとする所を、小島勘左衛門走寄り、袖を控へ大将の公達たらん人は、御身を完うして時を待ち、逆徒を打平げ給ふこそ、御本意なるべけれ、今爰に死し給ふは却て未練の御働なりとて、人紛れに誘ひ去らんとしけれども、敵大勢群り来る故、如何ともすべからず。如何せんと前後の透間を窺ふ所に、門番に居合はせたる山岸荘助と申足軽、小さかしき者にて、番所の板敷引発し、匿くし置く。程なく夜に入りければ、開て之を出だすに、熟眠して居たり。夫を喚起して林泉寺へ落しけり。寺僧亦之を危ぶみ、其夜の中に乳母の夫橡尾の本荘美作守慶秀に托す。慶秀則ち我が家に匿くし、宇佐美駿河守定行と共に、心を尽して保護せり。 ○明年正月、輝虎、賊の己を捜索して已まざるを聞き、出て之を避けんと欲し、従士十四人と行脚の僧状を為し行縢を着し、草鞋を穿ち出て米山に上り、府内を臨み覗て曰く、吾他日兵を起し、国を復する時は、必ず此に陣せんと。遂に栴檀野に至り、泣き且つ拝して曰く、児必ず仇敵を夷滅して、以て冤魂を慰せんと。是に於て北陸東山の諸国を経歴し、山川城地の形勢を周視し、悉く図写して齎らし帰る。既にして賊に告ぐるに輝虎の在る所を以てする者あり。賊人を遣はし来り捕へんとす。輝虎慶秀、定行と謀り、兵を起し橡尾の城を修め、之に楯籠れり。
書き下し
○天文十四年四月、爲景栴檀野にて戰死せし由、府內へ聞えければ、爲景の族長尾平六俊景俄に兵を起し、府內の城を襲ふ。輝虎味方の敗軍を見て、取て返して戰はんとする所を、小島勘左衞門走寄り、袖を控へ大將の公達たらん人は、御身を完うして時を待ち、逆徒を打平げ給ふこそ、御本意なるべけれ、今爰に死し給ふは却て未練の御働なりとて、人紛れに誘ひ去らんとしけれども、敵大勢群り來る故、如何ともすべからず。如何せんと前後の透間を窺ふ所に、門番に居合はせたる山岸莊助と申足輕、小さかしき者にて、番所の板敷引發し、匿くし置く。程なく夜に入りければ、開て之を出だすに、熟眠して居たり。夫を喚起して林泉寺へ落しけり。寺僧亦之を危ぶみ、其夜の中に乳母の夫橡尾の本莊美作守慶秀に托す。慶秀則ち我が家に匿くし、宇佐美駿河守定行と共に、心を盡して保護せり。 ○明年正月、輝虎、賊の己を捜索して已まざるを聞き、出て之を避けんと欲し、從士十四人と行脚の僧狀を爲し行縢を着し、草鞋を穿ち出て米山に上り、府內を臨み覗て曰く、吾他日兵を起し、國を復する時は、必ず此に陣せんと。遂に栴檀野に至り、泣き且つ拜して曰く、兒必ず仇敵を夷滅して、以て冤魂を慰せんと。是に於て北陸東山の諸國を經歷し、山川城地の形勢を周視し、悉く圖寫して齎らし歸る。既にして賊に告ぐるに輝虎の在る所を以てする者あり。賊人を遣はし來り捕へんとす。輝虎慶秀、定行と謀り、兵を起し橡尾の城を修め、之に楯籠れり。
現代語訳
天文十四年四月、為景が栴檀野で戦死したことが府内に伝わると、為景の一族の長尾平六俊景が急に兵を起こして府内の城を襲いました。輝虎は味方の敗軍を見て、取って返して戦おうとしたところ、小島勘左衛門が走り寄って袖を引き、「大将の若君たる方は、御身を全うして時を待ち、逆徒を打ち平らげなさるのが御本意のはずです。いまここで死なれるのは、かえって未練の働きです」と、人混みに紛れて誘い去ろうとしましたが、敵が大勢群がり来るので、どうにもなりません。どうしようかと前後の透き間をうかがううちに、門番に居合わせた山岸荘助という足軽が、小賢しい者で、番所の板敷きをはがして隠しました。やがて夜に入ったので、開けて出すと、輝虎はぐっすり眠っていました。起こして林泉寺へ落としました。寺の僧もまた危ぶみ、その夜のうちに乳母の夫である橡尾の本荘美作守慶秀に預けました。慶秀は自分の家に匿い、宇佐美駿河守定行とともに心を尽くして保護しました。 翌年正月、輝虎は賊が自分を捜索してやまないと聞き、出て避けようとして、従者十四人と行脚の僧の姿になり、行縢をつけ草鞋を履いて出発し、米山に上って府内を望み見て言いました。「私が他日兵を起こして国を取り戻すときは、必ずここに陣を張る」と。ついに栴檀野に至り、泣いて拝み、「子は必ず仇敵を滅ぼし、無念の魂を慰めます」と言いました。そこで北陸・東山の諸国を巡り、山川や城地の形勢をあまねく見て、すべて図に写して持ち帰りました。やがて賊に輝虎のいる所を告げる者がありました。賊は人を遣わして捕らえようとします。輝虎は慶秀、定行と謀り、兵を起こして橡尾の城を修築し、そこに立て籠もりました。
解説

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