名将言行録 / 『名将言行録』眞田昌幸 評・沼田領と父子の別れ
秀吉が、小田原の北條を攻めた直接の原因は眞田の沼田領に關する問題である。そんな點からも、昌幸幸村父子は、豐家を德としてゐたのだらう。父子で、時の權力者に對抗してゐるのも、氣持がいゝ。昌幸の長男信幸は、德川の本多忠勝の娘を妻にしてゐる關係、いつか德川方になつてしまつたのである。しかし、信幸も相當な人物で、關ヶ原の後、自分の一身を挺して、父と弟の一命を救つてゐるのである。「眞田三代記」など云ふ言葉がある通り、眞田一門は戰國時代に於ける武門の名家である。
新字:秀吉が、小田原の北条を攻めた直接の原因は真田の沼田領に関する問題である。そんな点からも、昌幸幸村父子は、豊家を徳としてゐたのだらう。父子で、時の権力者に対抗してゐるのも、気持がいゝ。昌幸の長男信幸は、徳川の本多忠勝の娘を妻にしてゐる関係、いつか徳川方になつてしまつたのである。しかし、信幸も相当な人物で、関ヶ原の後、自分の一身を挺して、父と弟の一命を救つてゐるのである。「真田三代記」など云ふ言葉がある通り、真田一門は戦国時代に於ける武門の名家である。
書き下し
秀吉が、小田原の北條を攻めた直接の原因は眞田の沼田領に關する問題である。そんな點からも、昌幸幸村父子は、豐家を德としてゐたのだらう。父子で、時の權力者に對抗してゐるのも、氣持がいゝ。昌幸の長男信幸は、德川の本多忠勝の娘を妻にしてゐる關係、いつか德川方になつてしまつたのである。しかし、信幸も相當な人物で、關ヶ原の後、自分の一身を挺して、父と弟の一命を救つてゐるのである。「眞田三代記」など云ふ言葉がある通り、眞田一門は戰國時代に於ける武門の名家である。
現代語訳
秀吉が小田原の北条を攻めた直接の原因は、真田の沼田領に関する問題です。そんな点からも、昌幸・幸村父子は豊臣家に恩を感じていたのでしょう。父子で、時の権力者に対抗しているのも、気持ちがいいことです。昌幸の長男信幸は、徳川の本多忠勝の娘を妻にしている関係で、いつか徳川方になってしまいました。しかし信幸も相当な人物で、関ヶ原のあと、自分の一身を投げ出して、父と弟の一命を救っています。「真田三代記」などという言葉があるとおり、真田一門は戦国時代における武門の名家です。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 評・領地は狭い名将眞田氏は、最初武田氏の部將で、武田亡びて後自立したのである。最初の項に、(法性院の兩眼の如くなる者)と、あるが、法性院とは、信玄自身のことである。 眞田昌幸は、幸村の父である。その領有した土地は狹かつたが戰國時代に於ける名將の一人である。黑田如水などと拮抗する人物ではないかと思はれる。とにかく、一生の內に德川勢に二度泡をふかせてゐるのである。關ヶ原の合戰に、秀忠の大軍を中途で、防ぎ止めたのは、非常な功績で、石田方が勝つてゐたならば、百萬石の大名になつてゐたらう。眞田三代記と云つて、昌幸、幸村、大助を擧げてゐるが、大助は少年にして死んでゐる。むしろ昌幸の父彈正忠幸隆を擧げるべきで、これが信玄の軍師として可なり偉いのである。 眞田は信州の上田から上州の沼田地方を領有してゐた。本文にもあるやうに、勝頼が天目山方面へ行かず、眞田領へは入つてゐたならば、あれほど簡單には滅ぼされなかつたのではないかと思はれる位、昌幸はしつかりしてゐるのである。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 降参勧告への答え○關ケ原の役、德川秀忠木曾より上る時、昌幸方へ使を以て、禍を招かるゝにてこそあれ、降參せられよと申越す。昌幸答に、秀賴公の爲に城を守り候。攻られなば一矢仕らんと言ふ。又使にて石田、小西等、己が權威を恣にせんが爲に斯る企に及べり、豐臣家の恩を蒙りし人々皆反きたるを以て知るべし、猶降參なくば信幸に腹切らせ、其後城を攻破るべしと申越す。昌幸太閤恩深き人の背き候は、是人々心の同じからざる故なり。既に子にて候信幸、父と相違ひたるにて知召さるべし。信幸に腹切らせられんとや。親の子を愛するは誰も同事に候へども、信幸、父と共に城に在らば同枕に討死すべし。信幸を助くべきにあらずと答へしかば、去らば攻よとて陣を寄せられけり。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 木綿の柄に隠した名刀○關ヶ原の役終り、昌幸高野の久度山の麓に蟄居す。時に大小の柄に木綿の打糸にて卷きたり。或人之を笑ふ。昌幸曰く、假令上に錦を着たりとも、心頭愚ならば用に立つまじ、夫と同じ此魂を見るべしとて拔き見せしに、兩刀共に相州正宗にてぞありける。世人其木綿の紐を稱して眞田打と云ふ。 ○昌幸蟄し居りしが、其志常に東西の戰起らば、大坂に興力して關東を亡さんと謀る。圍碁を好みて日毎に二男幸村と打ける。是は備立人數配を試むるなり。其後老病重りて死に臨みし時に、歎息し、我に一つの秘計あれども用ひずして死んと言ければ、幸村、後學の爲めに承り度と請ふ。昌幸汝が及ぶ所にあらずと言ふ。幸村身不肖に候へば仰置かれ候ても甲斐なき者と思召候はんこそ、返々恥入候と言ふ。昌幸、汝が愚なりとて我其志を言はざるにあらず、我は老功なれば人に仰がるゝに依て、謀用らる。汝が才智我に勝るとも、軍陣の數を重ねざる故、名顯はれざれば良策なりとも用られず、同輩異論を雜へ、心々にて何事も無益なり。然れども此年頃思ひ設けしことを空くせんも口惜しければ、汝が爲めに語らん、今三年過ぎずして、關東と大坂と合戰に及ぶべし。其時必ず大坂より我を招くべし、召に應じて出るならば、定めて我を以て謀主とせられん。其時兵二萬計を引連て、青野ヶ原の邊に出陣し、關東の軍を支へんこと、汝之を知るやと言ふ。幸村暫らく思案して、要害の地にもあらず、堅固の城を守るにもあらず、隣國の救を頼むにもあらず、二萬計の國々の集り武者を以て、關東の銳騎十倍の大軍を、然かも平原にて防んこと存も寄り候はず最も不審に候と言ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』北條氏規 評・小田原落城のあっけなさ○北條家の末路と云ふものは、何と云つてもアツ氣ない。天下の兵を迎へて、百日餘支へたとは云へ、氏政と弟の氏照が自殺し、當主の氏直だけが助命され、高野山に放れたと云ふのでは少し寂びし過ぎる。 開城するにしても、もう少しいゝ條件があつたのではないかと思はれる。こんな開城の仕方をする位なら、最初から妥協すれば、立派に北條家の社稷を殘すことが出來たのである。 この北條家にとつては不名譽な小田原落城史に、北條家のために、萬丈とは云へなくつても、相當の氣焰を揚げたものは、北條氏規だけである。小田原の支城が、悉く攻め落さるゝ間に在て、韮山城だけは、頑張り通したのである。もし、氏規が當主であつたならば、北條家は百萬石の諸侯として、江戸時代まで殘つたのではないかと思ふ。 秀吉は、氏直に伯耆で十八萬石與へるつもりであつたと云ふが、その中に氏直が死んでしまつたので、氏規が北條家を代表して、河内狹山で一萬石に封ぜられた。二百五十萬石から、一萬石では、あまりに轉落がひどすぎる。 維新の際、天誅組が最初に武器貸與の交渉したのが、この狹山の北條家である。北條家が、秀吉と妥協し、その二百五十萬石の威力をつゞけてゐたとしたら、家康はあんなに發展することも出來ず、天下の形勢は何う動いたか。尤も、氏政氏直程度の人物では、結局同じ事であつたかも分らないが・・・・・・・・・・・。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 証文で示す恩賞と士気○會津の役、昌幸下野犬伏より兵を旋し、上田に還るや、直ちに老臣以下物頭殘らず召集め、今度秀賴公へ御味方申に於ては、信州、甲州、上州三ケ國を賜はるべきとの證文を見せて曰く、各精を入れて稼ぐべし、家老禰津長右衞門には小室の城に六萬石を添て興へ、矢澤但馬には矢澤の城付の知行共に興ふ。小山田壹岐には松本七萬石、其他家老共に、或は伊奈高遠所々の城付の所領共に宛行ふ由申渡し、鞠子三右衞門には諏訪三萬石、昌幸末子宮内左馬介兩人にも、信州の內にて指圖して知行を分る。其外の侍大將には、只今持掛りの知行一倍の加增を興へ、此上には手柄次第に加恩すべしと申渡し、組々の侍共には手柄次第に加增すべし、先づ馬上の者の儀は、申に及ばず、步行の者、又內の侍足輕中間小者百姓、町人に至るまでも、此度の働には敵の首一つに知行百石づゝ興ふべきこと、僞りあるべからずと申渡すに付て、侍のことは申に及ばず、足輕小者までも勇むこと限りなく、之に依り城普請等思ひの儘に行屆き、籠城せりとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』眞田昌幸 晴信の両眼と勝頼への進言彈正忠幸隆の子、安房守に任じ、上田城に住す。慶長五年高野九度山に蟄居し、一翁千雪と號す。同十六年六月四日卒、年六十八。 ○元龜元年九月、武田晴信、北條氏政と駿河にて對陣の時、是非一戰を遂げ、明後日は必ず小田原入と言はれける。時に馬場信房敵味方防戰の地形を御存なくては如何と言ふ。晴信夫は、各々心易く思ひ候へ、法性院が兩眼の如くなる者を指出し候と言はれけり。人皆御兩眼とあるは誰人ぞと不審を立つる所に、頓て兩人斥候して歸りたるを見れば、昌幸と曾根内匠なり。 ○十年、勝頼諏訪に陣す。織田の軍勢四方より攻め來りし故、昌幸一ト先づ吾妻の城に籠られ、然る上恢復の謀を廻らし給へと勸めけれども、長坂頼弘其謀を阻す。勝頼、昌幸の言を用ひず、郡内に赴き、遂に身死、國亡びたり。