名将言行録 / 『名将言行録』山縣昌景 若者三種の見分け方
○土屋昌次、昌景に問て曰く、若き者共、種々の樣子之あるを、某心して見けれども、其かたぎを見付けず、願くは目利する樣を敎へられよと。昌景聞て、先づ爰に若者三人あり。第一に異相者、第二に伊達者、第三にゐち者、是三人なり。先づ一番に異相者は、ひとかたぎにて、武の役に立つこと勝れて、心淸く、假令ば刀脇差の替はりて出來たる樣なり、御家にては、穴山殿抔、夷大黑にて紙子を作り着て歩行せらるゝ、是は異相人なり、又小身にては、名和無理介、國持にては織田信長なり。二番に伊達者と曰ふも武役に立つ人なり、一條殿抔、馬鞍武具等是程陣繁きに何つも新くして、然かも諸國の浪人の能き者を集め、さどめき渡らるゝ、此樣なる人を言ふなり。三番にゐち者と云ふは、衣類諸道具華美に計り思案して、女の好む樣に微弱なる奴をゐち者と言て、何の役にも立ぬ臆病者にて、二十三十になりても、善きこととなく、恥を恥とも思はず、殊更其者は口長けて、明幕役にも立たぬ腹拔くことをしたがり、猛き兵者の權高なるを、眞似損ひ、座頭の如く大言を吐き、武邊の時は、人並より內の蟲頭を漸く拾ひ、親兄弟の敵ありても狙はず、不穿鑿なることを遠慮なしに申し、戲るゝ者をは、我等の同心には致さず候と言はれけり。
新字:○土屋昌次、昌景に問て曰く、若き者共、種々の様子之あるを、某心して見けれども、其かたぎを見付けず、願くは目利する様を教へられよと。昌景聞て、先づ爰に若者三人あり。第一に異相者、第二に伊達者、第三にゐち者、是三人なり。先づ一番に異相者は、ひとかたぎにて、武の役に立つこと勝れて、心清く、仮令ば刀脇差の替はりて出来たる様なり、御家にては、穴山殿抔、夷大黒にて紙子を作り着て歩行せらるゝ、是は異相人なり、又小身にては、名和無理介、国持にては織田信長なり。二番に伊達者と曰ふも武役に立つ人なり、一条殿抔、馬鞍武具等是程陣繁きに何つも新くして、然かも諸国の浪人の能き者を集め、さどめき渡らるゝ、此様なる人を言ふなり。三番にゐち者と云ふは、衣類諸道具華美に計り思案して、女の好む様に微弱なる奴をゐち者と言て、何の役にも立ぬ臆病者にて、二十三十になりても、善きこととなく、恥を恥とも思はず、殊更其者は口長けて、明幕役にも立たぬ腹抜くことをしたがり、猛き兵者の権高なるを、真似損ひ、座頭の如く大言を吐き、武辺の時は、人並より内の虫頭を漸く拾ひ、親兄弟の敵ありても狙はず、不穿鑿なることを遠慮なしに申し、戯るゝ者をは、我等の同心には致さず候と言はれけり。
書き下し
○土屋昌次、昌景に問て曰く、若き者共、種々の樣子之あるを、某心して見けれども、其かたぎを見付けず、願くは目利する樣を敎へられよと。昌景聞て、先づ爰に若者三人あり。第一に異相者、第二に伊達者、第三にゐち者、是三人なり。先づ一番に異相者は、ひとかたぎにて、武の役に立つこと勝れて、心淸く、假令ば刀脇差の替はりて出來たる樣なり、御家にては、穴山殿抔、夷大黑にて紙子を作り着て歩行せらるゝ、是は異相人なり、又小身にては、名和無理介、國持にては織田信長なり。二番に伊達者と曰ふも武役に立つ人なり、一條殿抔、馬鞍武具等是程陣繁きに何つも新くして、然かも諸國の浪人の能き者を集め、さどめき渡らるゝ、此樣なる人を言ふなり。三番にゐち者と云ふは、衣類諸道具華美に計り思案して、女の好む樣に微弱なる奴をゐち者と言て、何の役にも立ぬ臆病者にて、二十三十になりても、善きこととなく、恥を恥とも思はず、殊更其者は口長けて、明幕役にも立たぬ腹拔くことをしたがり、猛き兵者の權高なるを、眞似損ひ、座頭の如く大言を吐き、武邊の時は、人並より內の蟲頭を漸く拾ひ、親兄弟の敵ありても狙はず、不穿鑿なることを遠慮なしに申し、戲るゝ者をは、我等の同心には致さず候と言はれけり。
現代語訳
土屋昌次が昌景に尋ねて言いました。若い者たちにさまざまな様子があるのを、私は心して見ていますが、その気質を見つけることができません。どうか見極め方をお教えください、と。昌景はこれを聞いて、まずここに若者が三人いるとしよう。第一に異相者、第二に伊達者、第三にゐち者、この三人である。まず一番に異相者は、一つの気質をもち、武の役に立つことが優れていて、心が清く、たとえば刀や脇差が人に変わって現れたような者だ。御家では穴山殿などが、恵比寿大黒の絵で紙子を作って着て歩かれている。これは異相の人だ。また小身では名和無理介、国持ちでは織田信長である。二番に伊達者というのも武役に立つ人である。一条殿などが、馬・鞍・武具などを、これほど陣が続いてもいつも新しくして、しかも諸国の浪人の優れた者を集めて、にぎやかに歩かれる。このような人をいう。三番にゐち者というのは、衣類や諸道具の華美なことばかりを考え、女の好むような弱々しい奴を、ゐち者という。何の役にも立たない臆病者で、二十、三十になっても善いことがなく、恥を恥とも思わない。ことにその者は口が達者で、いまさら役にも立たない腹抜けなことをしたがり、勇ましい兵が威張っているのを、まね損ない、座頭のように大言を吐き、武辺のときは人並みより内の虫頭をようやく拾い、親兄弟の敵があっても狙わず、詮索しないことを遠慮なく言い、戯れる者は、私の同心にはしないと言われました。
解説

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