名将言行録 / 『名将言行録』馬場信房 利根者を分ける物差し
○又曰く、主人の好き好むことを勸め、聊の諫めをも申さゞる人をば、心に付けて見るべきことなりと。 ○信房、常に戰場常在と云ふ四字を、壁間に掛け置き、平生の誡とせり。 ○信房、或城を攻めし時、銃丸適度に來りし故、鹿角の胄を著たりしが胄を振て下を見ければ、鳥銃上りて、一ツも味方の士卒に中らざりしとぞ。 ○穴山信良、信房に向ひ、德川家康は、人に勝れて利根なる人にて候やと言ふ。信房惲ながら左樣の御詞を他國の人々承はり候はゞ笑ひ候ひなん、抑々武士が武士を譽むるに、作法定まりあり。第一に謠舞、或は物を讀むに悟りの敏なる人を利根なると云ふ。其所作柄、又は品の善き人を器用なると云ふ。又性發とも才智とも云ふ。第二に坐配能く、大身小身に打合、取成少しもあぐます、輕薄にもなく、質にもなく、如何にも見事に仕合するを、利發人、公界者と云ふ。第三に藝つきも無器用に、坐配も仕得ずして、武邊の方に賢きをば、利口者と云ふ。此人を心掛け者、强ね者、仕さう成る者と名付て呼び候。大身小身共に斯の如くなり、箇樣に分けて、夫々に名付て言はねば、國持大名抔、合點ならず候。信玄公若き御時より、御穿鑿あり、曾根内匠、眞田喜兵衞、三枝勘解由左衞門三人に仰付けられて、浪人の參る毎に、右三人先づ其侍を見届け、夫々に披露致し候と言はれけり。
新字:○又曰く、主人の好き好むことを勧め、聊の諫めをも申さゞる人をば、心に付けて見るべきことなりと。 ○信房、常に戦場常在と云ふ四字を、壁間に掛け置き、平生の誡とせり。 ○信房、或城を攻めし時、銃丸適度に来りし故、鹿角の胄を著たりしが胄を振て下を見ければ、鳥銃上りて、一ツも味方の士卒に中らざりしとぞ。 ○穴山信良、信房に向ひ、徳川家康は、人に勝れて利根なる人にて候やと言ふ。信房惲ながら左様の御詞を他国の人々承はり候はゞ笑ひ候ひなん、抑々武士が武士を誉むるに、作法定まりあり。第一に謡舞、或は物を読むに悟りの敏なる人を利根なると云ふ。其所作柄、又は品の善き人を器用なると云ふ。又性発とも才智とも云ふ。第二に坐配能く、大身小身に打合、取成少しもあぐます、軽薄にもなく、質にもなく、如何にも見事に仕合するを、利発人、公界者と云ふ。第三に芸つきも無器用に、坐配も仕得ずして、武辺の方に賢きをば、利口者と云ふ。此人を心掛け者、強ね者、仕さう成る者と名付て呼び候。大身小身共に斯の如くなり、箇様に分けて、夫々に名付て言はねば、国持大名抔、合点ならず候。信玄公若き御時より、御穿鑿あり、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門三人に仰付けられて、浪人の参る毎に、右三人先づ其侍を見届け、夫々に披露致し候と言はれけり。
書き下し
○又曰く、主人の好き好むことを勸め、聊の諫めをも申さゞる人をば、心に付けて見るべきことなりと。 ○信房、常に戰場常在と云ふ四字を、壁間に掛け置き、平生の誡とせり。 ○信房、或城を攻めし時、銃丸適度に來りし故、鹿角の胄を著たりしが胄を振て下を見ければ、鳥銃上りて、一ツも味方の士卒に中らざりしとぞ。 ○穴山信良、信房に向ひ、德川家康は、人に勝れて利根なる人にて候やと言ふ。信房惲ながら左樣の御詞を他國の人々承はり候はゞ笑ひ候ひなん、抑々武士が武士を譽むるに、作法定まりあり。第一に謠舞、或は物を讀むに悟りの敏なる人を利根なると云ふ。其所作柄、又は品の善き人を器用なると云ふ。又性發とも才智とも云ふ。第二に坐配能く、大身小身に打合、取成少しもあぐます、輕薄にもなく、質にもなく、如何にも見事に仕合するを、利發人、公界者と云ふ。第三に藝つきも無器用に、坐配も仕得ずして、武邊の方に賢きをば、利口者と云ふ。此人を心掛け者、强ね者、仕さう成る者と名付て呼び候。大身小身共に斯の如くなり、箇樣に分けて、夫々に名付て言はねば、國持大名抔、合點ならず候。信玄公若き御時より、御穿鑿あり、曾根内匠、眞田喜兵衞、三枝勘解由左衞門三人に仰付けられて、浪人の參る毎に、右三人先づ其侍を見届け、夫々に披露致し候と言はれけり。
現代語訳
また言いました。主人の好むことを勧めて、少しの諫めも申さない人は、心に留めて見るべきことである、と。 信房は常に「戦場常在」という四字を壁に掛けておき、日頃の戒めとしました。 信房がある城を攻めたとき、鉄砲の弾がたまたま来たので、鹿角の兜をかぶっていたが、兜を振って下を見たところ、鉄砲は上がってしまい、味方の士卒には一つも当たらなかったと言われています。 穴山信良が信房に向かって、徳川家康は人に勝れて利根な人でしょうかと尋ねました。信房は、恐れながらそのようなお言葉を他国の人々が聞いたなら笑うでしょう。そもそも武士が武士を誉めるのには、作法が決まっております。第一に、謡や舞、あるいは物を読むのに悟りの早い人を利根と言います。その所作や品のよい人を器用と言います。また性発とも才智とも言います。第二に、座配がよく、大身にも小身にも調子を合わせ、取りなしが少しもあぐねず、軽薄でもなく質朴にも偏らず、いかにも見事にふるまうのを、利発人、公界者と言います。第三に、芸事は不器用で、座配も会得せず、武辺の方に賢い者を、利口者と言います。この人を、心掛け者、強ね者、しそうな者と名づけて呼びます。大身も小身もこのとおりで、このように分けて、それぞれに名づけて言わなければ、国持大名などは納得されません。信玄公は若い頃から詮索され、曾根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人に仰せつけて、浪人が来るたびに、この三人がまずその侍を見届け、それぞれに披露していたと言われました。
解説

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