名将言行録 / 『名将言行録』山縣昌景 大将と武者の呼び分け
○昌景、昌次に語て曰く、侍が武士道の沙汰に、大身小身の噂申時は、詞大方定まりあり、先づ第一に國持をば弓箭執と云ふ。第二に、一郡一城計の侍大將をば、武邊者と云ふ。第三に小身なる人をば兵と云ふ。去る程に國持の度々合戰に勝ち、數ケ所城を攻取り、覇ありて文を嗜み、能く人を見知る大將を、文武二道の弓執と譽めて名大將と言へり。偖一郡一城、或は一ケ國を持ても、小身なる者が主に取立られ、主の恩にて國主にならば、本の大將とは言はず、郡代城代、又は侍大將とも申さん。此人の手柄ありとも、能き武邊者と譽めり。是は其君へ對して、右郡代の分限あるをも、嗜みの武士と言へり。去ながら小身なる侍の、分別工夫を以て、能き大將に奉公し、小身より仕上け、其後我手柄にて、半國一國も切取るに付て、是又大將と申さん。其人五ケ國十ケ國持つ大將と、無事にして、互に助合ふとも、小身なる方を旗下と言て被官とは言はず、假令人の旗下にても、夫は當座の政なる故、我手柄にて一郡持ても、夫をも弓箭執と申て、聊か子細なし。若し又文を嗜まば、文武二道と譽め候はん。仔細は北條長氏、今川へ便り、後我手柄にて、伊豆相模を取り、德川家康、是も今川へ便り今斯の如し、中にも小者なる若者、一二度放討の科人を能く切り、或は合戰追合足輕場にて、追頸の一つ二つをも、振能く取りたるをば、利口者と言ふ。偖又右の場にて、鎗を合はする人に續き、鎗下の高名を致し、此兩人に續き、鎗脇を詰めて譽れある人をば、一度二度三度までは、甲斐々々敷人と言ふ。右の仕合重なりて四番目よりは、剛の兵とて、是を覺えの者と言ふ。覺え重なりて十度に餘り、物數ある侍を指して大剛の人と言ふ。其人に分別工夫あれば、何にと小身にても、名人と名作る。
新字:○昌景、昌次に語て曰く、侍が武士道の沙汰に、大身小身の噂申時は、詞大方定まりあり、先づ第一に国持をば弓箭執と云ふ。第二に、一郡一城計の侍大将をば、武辺者と云ふ。第三に小身なる人をば兵と云ふ。去る程に国持の度々合戦に勝ち、数ケ所城を攻取り、覇ありて文を嗜み、能く人を見知る大将を、文武二道の弓執と誉めて名大将と言へり。偖一郡一城、或は一ケ国を持ても、小身なる者が主に取立られ、主の恩にて国主にならば、本の大将とは言はず、郡代城代、又は侍大将とも申さん。此人の手柄ありとも、能き武辺者と誉めり。是は其君へ対して、右郡代の分限あるをも、嗜みの武士と言へり。去ながら小身なる侍の、分別工夫を以て、能き大将に奉公し、小身より仕上け、其後我手柄にて、半国一国も切取るに付て、是又大将と申さん。其人五ケ国十ケ国持つ大将と、無事にして、互に助合ふとも、小身なる方を旗下と言て被官とは言はず、仮令人の旗下にても、夫は当座の政なる故、我手柄にて一郡持ても、夫をも弓箭執と申て、聊か子細なし。若し又文を嗜まば、文武二道と誉め候はん。仔細は北条長氏、今川へ便り、後我手柄にて、伊豆相模を取り、徳川家康、是も今川へ便り今斯の如し、中にも小者なる若者、一二度放討の科人を能く切り、或は合戦追合足軽場にて、追頸の一つ二つをも、振能く取りたるをば、利口者と言ふ。偖又右の場にて、鎗を合はする人に続き、鎗下の高名を致し、此両人に続き、鎗脇を詰めて誉れある人をば、一度二度三度までは、甲斐々々敷人と言ふ。右の仕合重なりて四番目よりは、剛の兵とて、是を覚えの者と言ふ。覚え重なりて十度に余り、物数ある侍を指して大剛の人と言ふ。其人に分別工夫あれば、何にと小身にても、名人と名作る。
書き下し
○昌景、昌次に語て曰く、侍が武士道の沙汰に、大身小身の噂申時は、詞大方定まりあり、先づ第一に國持をば弓箭執と云ふ。第二に、一郡一城計の侍大將をば、武邊者と云ふ。第三に小身なる人をば兵と云ふ。去る程に國持の度々合戰に勝ち、數ケ所城を攻取り、覇ありて文を嗜み、能く人を見知る大將を、文武二道の弓執と譽めて名大將と言へり。偖一郡一城、或は一ケ國を持ても、小身なる者が主に取立られ、主の恩にて國主にならば、本の大將とは言はず、郡代城代、又は侍大將とも申さん。此人の手柄ありとも、能き武邊者と譽めり。是は其君へ對して、右郡代の分限あるをも、嗜みの武士と言へり。去ながら小身なる侍の、分別工夫を以て、能き大將に奉公し、小身より仕上け、其後我手柄にて、半國一國も切取るに付て、是又大將と申さん。其人五ケ國十ケ國持つ大將と、無事にして、互に助合ふとも、小身なる方を旗下と言て被官とは言はず、假令人の旗下にても、夫は當座の政なる故、我手柄にて一郡持ても、夫をも弓箭執と申て、聊か子細なし。若し又文を嗜まば、文武二道と譽め候はん。仔細は北條長氏、今川へ便り、後我手柄にて、伊豆相模を取り、德川家康、是も今川へ便り今斯の如し、中にも小者なる若者、一二度放討の科人を能く切り、或は合戰追合足輕場にて、追頸の一つ二つをも、振能く取りたるをば、利口者と言ふ。偖又右の場にて、鎗を合はする人に續き、鎗下の高名を致し、此兩人に續き、鎗脇を詰めて譽れある人をば、一度二度三度までは、甲斐々々敷人と言ふ。右の仕合重なりて四番目よりは、剛の兵とて、是を覺えの者と言ふ。覺え重なりて十度に餘り、物數ある侍を指して大剛の人と言ふ。其人に分別工夫あれば、何にと小身にても、名人と名作る。
現代語訳
昌景は昌次に語って言いました。侍が武士道の話で、大身小身の噂を申すときは、言葉はおおよそ決まりがある。まず第一に、国持ちを弓取りと言う。第二に、一郡一城ばかりの侍大将を武辺者と言う。第三に、小身の人を兵と言う。そのうえで、国持ちが度々合戦に勝ち、数か所の城を攻め取り、覇者の風があって文を嗜み、よく人を見知る大将を、文武二道の弓取りと誉めて名大将と言う。さて一郡一城、あるいは一国を持っても、小身の者が主に取り立てられ、主の恩で国主になった場合は、本来の大将とは言わず、郡代・城代、または侍大将とも言おう。この人に手柄があっても、よい武辺者と誉める。これはその主君に対して、郡代の分限があるのを、嗜みの武士と言うのである。しかしながら小身の侍が、分別と工夫でよい大将に奉公し、小身から仕上げ、その後、自分の手柄で半国・一国を切り取って、これもまた大将と申そう。その人が五か国十か国を持つ大将と無事に互いに助け合っても、小身の方を旗下と言って被官とは言わない。たとえ人の旗下であっても、それは当座の政であるから、自分の手柄で一郡を持っても、それをも弓取りと言って、少しも差し支えない。もしまた文を嗜むなら、文武二道と誉めよう。その理由は、北条長氏が今川を頼り、後に自分の手柄で伊豆・相模を取り、徳川家康もこれも今川を頼り、今このとおりである。中でも、小者の若者が、一、二度放ち討ちの咎人をよく切り、あるいは合戦や追い合いの足軽場で、追い首の一つ二つを見事に取ったのを、利口者と言う。さて、その場で槍を合わせる人に続き、槍下の高名をし、この両人に続いて、槍脇を詰めて誉れある人を、一度、二度、三度までは、甲斐甲斐しい人と言う。この仕合わせが重なって四番目からは、剛の兵と言って、これを覚えの者と言う。覚えが重なって十度に余り、場数のある侍を指して大剛の人と言う。その人に分別と工夫があれば、どれほど小身でも名人と名づける。
解説

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『甲陽軍鑑』品第四十以上此折柄山県三郎兵衛土屋に語りて言く、侍が武士道のさたに大身·小身のうはさ申時、詞大方定まりたり、先第一に国持をば弓矢取と申、第二に一郡·一城斗りの侍大将をば武篇者と申、第三に小身なる人をば兵と申、さる程に国持度々合戦に勝、数ケ所城をせめとり、覇ありて文をたしなみ、能人をみしる大将を文·武二道の弓取とほめて名大将と申者也、
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『甲陽軍鑑』品第四十子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手抦にて伊豆·相摸を取、浜松の家康是も今川殿へたより今如此、就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戦せりあひ、足軽塲にて追頸の一ツ二ツをも、ふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の塲にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし、此両人につどき鑓わきをつめて、ほまれ有人をば一度·二度·三度まではかひ〳〵しき人と云ふ、右の仕合かさなりて、四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふ、おほへかさなり十度に余るを塲数有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ、其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨一郡·一城或は一ケ国をもちても、小身なる者が主に取立られ、主の恩にて下され国主に成をば本の大将とはいわず、郡代·城代又は侍大将共申さん、此人の手抦あり共、よき武篇者と誉て其君へ文おそれなれば、右郡代の分など有をもたしなみの武士と申なり、さりながら小身なる侍の分別工夫をもつてよき大将へ奉公致し、小身を仕上げ、其後かはりめに主なしになり、我手抦にて半国·一国も切取に付ては是又大将と申さん、
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