名将言行録 / 『名将言行録』原虎胤 遺言と蛇となめくじ
○信虎嘗て曰く、虎胤は十度の戰あらば十一度手に逢はんものをと稱讃せり。虎胤、信虎、晴信に仕へ、證文三十八通、小田原へ四年仕へて、氏康證文九通を得たり。終りに望み遺言す、屋形御年若き時分は、年々大合戰年中に兩度もあり、今は三四年立つとも、大合戰之なし、假令あると曰ふも、今より末は、御旗本にて合戰のあること希なれば、場數は有間敷候、昔十度の場數より、今一度の手柄は少し上なり、依て各武士道を研究し怠るべからずと言て卒せり。 ○或人虎胤に向ひ、原美濃殿は武邊の將とて、近國他國までも聞え給ふが、妻君に出逢給ひては善惡ともに恐れ給ふこと心得難しと言ふ。虎胤聞て、蛇は人に逢ては强けれども、なめくじに逢ふては致方なし、之と同く、弱き者は强きに勝と云ふ道理にて斯の如し、我等强き者に出逢うては、鬼とも組まんと勇めども、あの女房の弱々としたる風情にて、我に向ふ時は蛇なれどもなめくじにまはさるゝが如しと言ひしとぞ。
新字:○信虎嘗て曰く、虎胤は十度の戦あらば十一度手に逢はんものをと称讃せり。虎胤、信虎、晴信に仕へ、証文三十八通、小田原へ四年仕へて、氏康証文九通を得たり。終りに望み遺言す、屋形御年若き時分は、年々大合戦年中に両度もあり、今は三四年立つとも、大合戦之なし、仮令あると曰ふも、今より末は、御旗本にて合戦のあること希なれば、場数は有間敷候、昔十度の場数より、今一度の手柄は少し上なり、依て各武士道を研究し怠るべからずと言て卒せり。 ○或人虎胤に向ひ、原美濃殿は武辺の将とて、近国他国までも聞え給ふが、妻君に出逢給ひては善悪ともに恐れ給ふこと心得難しと言ふ。虎胤聞て、蛇は人に逢ては強けれども、なめくじに逢ふては致方なし、之と同く、弱き者は強きに勝と云ふ道理にて斯の如し、我等強き者に出逢うては、鬼とも組まんと勇めども、あの女房の弱々としたる風情にて、我に向ふ時は蛇なれどもなめくじにまはさるゝが如しと言ひしとぞ。
書き下し
○信虎嘗て曰く、虎胤は十度の戰あらば十一度手に逢はんものをと稱讃せり。虎胤、信虎、晴信に仕へ、證文三十八通、小田原へ四年仕へて、氏康證文九通を得たり。終りに望み遺言す、屋形御年若き時分は、年々大合戰年中に兩度もあり、今は三四年立つとも、大合戰之なし、假令あると曰ふも、今より末は、御旗本にて合戰のあること希なれば、場數は有間敷候、昔十度の場數より、今一度の手柄は少し上なり、依て各武士道を研究し怠るべからずと言て卒せり。 ○或人虎胤に向ひ、原美濃殿は武邊の將とて、近國他國までも聞え給ふが、妻君に出逢給ひては善惡ともに恐れ給ふこと心得難しと言ふ。虎胤聞て、蛇は人に逢ては强けれども、なめくじに逢ふては致方なし、之と同く、弱き者は强きに勝と云ふ道理にて斯の如し、我等强き者に出逢うては、鬼とも組まんと勇めども、あの女房の弱々としたる風情にて、我に向ふ時は蛇なれどもなめくじにまはさるゝが如しと言ひしとぞ。
現代語訳
信虎はかつて、虎胤は十度戦があれば十一度は敵に出会おうという者だと称賛しました。虎胤は信虎・晴信に仕えて証文三十八通を受け、小田原へ四年仕えて、氏康から証文九通を得ました。臨終の際に望んで遺言しました。屋形様がお若い頃は、毎年、大合戦が年に二度もありましたが、今は三、四年たっても大合戦はなく、たとえあるとしても、これから先は御旗本で合戦をすることはまれですから、場数を踏むことはないでしょう。昔の十度の場数より、今の一度の手柄のほうが少し上です。だから皆、武士の道を究めることを怠ってはなりません、と言って亡くなりました。 ある人が虎胤に向かって、原美濃殿は武勇の将として近国他国にまで聞こえていらっしゃるのに、奥方に出会われると善くも悪くも恐れなさるのは、理解しがたいと言いました。虎胤はそれを聞いて、蛇は人に会えば強いが、なめくじに出会ってはどうしようもない。それと同じで、弱い者が強い者に勝つという道理でこうなのだ。自分は強い者に出会えば鬼とも組もうと勇むが、あの女房のしおらしい様子で自分に向かってこられると、蛇でありながらなめくじに回されるようなものだ、と言ったと伝わります。
解説

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